FOW閑話シリーズ
月下独酌

作者 エルさん

 男は酒を飲んでいた。

「不味い酒だ」

 心が病んでいる。
 現実から逃げる為の酒だった。
 透き通った酒に映ったものを見て、男は閉口した。
 人形が映っていた。
 翼をもがれた鳥。
 命の鎖を握られた憐れな男が、ただ一人。
 男は、一気に酒を飲み込んだ。

「夢だな…」
 自分を打ち負かした少女を思い浮かべる。
 大きな翼だった。
 男は、大きく息を吐いた。
「夢だな…」
 目を閉じ、もう一度呟く。
 最期の夢だ。
 現実逃避に疲れた負け犬でも、
 もう一度くらい真っ当な夢を見ても罰は当たらないだろう。
 
 男はゆっくりと目を開いた。
 そして、酒を注ごうとして、"それ"に気づいた。
 研ぎ澄まされた格闘家の感が告げる違和感。
 妖気、と言う言葉が男の頭に浮かんだ。
 今まで、感じたことのない異様な気だった。
 鋭く目を光らせる。

「汝か…?」

 妖艶な声が響いた。
 男は何が起きても対応できるように全身の筋肉を緊張させる。
 構えはしない。
 平静を装うのは虚栄心ではなく、声に殺気が感じられないからだ。
 声の主は女だった。
 見知った"あの女性"ではなかった。
 男は微かな安堵の息を吐いた。

「汝か、わらわを呼んだのは?」

 女は言葉を繰り返した。
 黄金色の髪が風もないのに揺れる。
 漆黒の和服に身を包み、真紅の瞳で、男を見つめている。
 絶世の美女であった。
 安易な表現だが、それ以上に彼女を表現する言葉は見つからない。

「俺は、おまえなど知らん」
「フフッ、フフフッ……」

 女は凄まじい美貌で笑った。
 妖艶な笑みだったが、男を魅了する笑みではなかった。
 心を撃ち抜き、魂を砕く美貌だった。
 男は戦慄した。
 女は気にした様子もなく、真っ赤な唇で言葉を紡ぐ。

「汝は、はばたくものではないのか?」
「はばたく? 翼もないのにか?」

 男は自分の言葉に自嘲が混じっていることに気づいていた。

「翼がないと言うか。可笑しなことよ」
「可笑しい、だと?」
「夢を望んだであろうに……」

「夢……」
 男は硬直した。
 女がなぜ、このようなことを語るのか見当もつかない。
 だが、男の口は素直に女に答えていた。
「あの少女か…?」
「形は知らぬ。フフッ……」
 惹き込まれそうになる輝きを放ちながら、女の真紅の瞳に愉悦の色が浮かぶ。
 夢がある。
 そして、どのような夢でも、そこに到達する為に羽ばたく翼がある。
 男の翼は知らず知らずに甦っていた。

「やはり、汝も翼持つもの」

 女は男に腕を伸ばして来た。

「わらわと戯れてたもれ…。渇きを癒してくれ…」

 男は頭が、ぼうっとしてくるのを感じていた。
 酒の仕業ではない。
 女の力だ。
 女は物の怪だと、男は確信した。
 
「俺の命で買った最期の夢だ。誰にも邪魔はさせん!」
 男は吠えた。
「おぉぉぉぉぉぉっ!!」
 魂の雄叫びだった。

 男の鋭い拳が、女を捉えたと、思えた瞬間。
 女は、男に向かって、もう一度笑った。

「その魂こそ…!」

 呟きとともに、女の姿は掻き消えた。
 男は、油断なく周りを見まわしたが、女の妖気は微塵も感じることができなかった。
 どうやら、本当に消えたらしい。

 男は、拳を見つめて、開き、そして、強く握り締めた。
 そして、大きく息を吐くと、酒を手に取った。
 ぐっと飲み干す。

「悪くない味だ」

 男は笑った。


 

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