FOW閑話シリーズ
『梅雨』
作者 エルさん
| 六月。 日本では、雨の多い季節だと言う。 じめじめとした空気。 暗い空。 これほど毎日見せられては、鬱勃としたものが湧きあがってくるのも 当然なのかもしれない。 「雨か…」 広間の窓から外に憂鬱な視線を向けている男がいる。 "誇り高き"ヴァイスハウプト。 秘密結社『暦』の最高幹部の一人だ。 曲者ぞろいの『暦』の中でも、最も熱心に理想社会実現のために 身を捧げる男。 来るべき理想のために彼は手段を選ばずにテロリストとして 今の社会を壊す役目を自分に課していた。 「浮かぬ顔ですね」 唐突に後ろから声を投げかけられた。 ヴァイスハウプトが振り返ると、漆黒の法衣を纏った女性が立っていた。 「リヴィーナか…」 『暦』の『議長』"白髪"のブランキの腹心の幹部リヴィーナ=ラヴィーナ。 光沢のある黒髪をしていて、顔立ちそのものは整っている方なのだが、 如何せん、光彩が小さく窄んだ不気味としか形容できない目つきと 血の気のまったくない病的な青白い顔が、すべてを台無しにしている。 これでは、下級幹部たちに影で"死神"と渾名されるのも致し方ないな。 ヴァイスハウプトはそう思ったが、口には出さなかった。 口に出した所で、リヴィーナは一笑に伏すだろう。 彼女に取って、『そんなこと』はどうでもいいことなのだ。 「この雨を見ていると心が沈むのだよ」 ヴァイスハウプトは、窓の外に視線を戻すと静かに言葉を紡いだ。 「私は何をしているのだとな」 雨が地面に当たる音が奇妙に大きく弾けた。 「私は戦っている。理想の、理想の社会の創造の為に…私は戦っている」 彼は戦っていた。 そう『暦』に加盟する以前から、ずっとずっと戦い続けてきた闘士だった。 「だが、『暦』が肥大化していくにつれて思うのだ。私は何をしているのだと」 最近、彼は悩むのだ。 自分は正しいのかと。 「あの頃は、そう、『暦』の幹部になる前は何も考えなくて良かった。 不安など無かった。 寡兵ながらも結束は鉄の如く、私は同志戦友たちと理想の実現の為に 荒野を駆けていれば良かったのだ」 一心不乱。 テロ行為にすら、奇妙な連帯感を持てたあの頃。 何の疑問もなく、突き進めたあの頃。 「だが、『六月』となってからは違う。 確かに、膨大な兵士、資力、巨大なネットワークは手に入った」 世界規模での活動が可能となり、さまざまな力が手に入った。 以前とはまるで違う豊な宮殿を手に入れたはずだった。 「だが、あの頃とは違うのだ…」 「裏切り者どものことを言っているのですか?」 リヴィーナが口を挟んだ。 愚かな"五月"は粛正され、叛逆した"八月"は脱走した。 両名とも存命。 『暦』にとっては誤算だ。 いや、ヴァイスハウプトと同じ、最高幹部"妖術師"アルシャンクにとっては 誤算ではないかもしれなかった。 彼の妖術を以ってすれば、抹殺することは容易いはずだ。 わざと逃がした感がある。 特に"八月"、アルシャンクは彼女に何か含む所があるとしか思えなかった。 「裏切り者は私が必ずイレーズします」 リヴィーナが宣言する。 彼女には『暦』こそが『絶対の正義』だった。 唯一神に叛逆した堕天使は狩らなければならない。 堕天使の反乱を誘発した唯一神の落ち度は目に入らないのだ。 最高幹部の中では『暦』の活動に精力的なヴァイスハウプトも、 そこまでは頭を固くできなかった。 「そのこともあるが…、それだけではないのだ」 煮え切らない態度のヴァイスハウプトに、リヴィーナは苛立ちを覚えた。 だが、その苛立ちに微かな恐れが混じっていることに リヴィーナは気づいていた。 「何が違うというのです、ヴァイスハウプト」 リヴィーナの声音が変わり、ヴァイスハウプトを呼び捨てにした。 彼女は普段、決して彼を始めとする上層部を呼び捨てになどしない。 年下の"凍てつく冬"のディーも敬称で呼び、傅くように丁寧語で接する。 『暦』としての自分に疑問を持つディーに対して、 彼女が快く思っていないのは、ヴァイスハウプトも薄々気づいている。 反対に、『暦』の活動に精力的なヴァイスハウプトや、 アルシャンク、"炎を運ぶ"レシェフに対しては、尊敬の感情を抱いていた。 今、彼女は、最も尊敬するであろうヴァイスハウプトを呼び捨てにした。 怒気と戦慄が混じったような不可思議な声だ。 彼女はヴァイスハウプトの『答え』を恐れているのだ。 それは、リヴィーナが常に頭の隅に追いやっている 『答え』かもしれないからだ。 「リヴィ。私は、自分が間違っているとは思っていない」 リヴィーナの豹変に、ヴァイスハウプトは敏感に反応した。 彼女は『暦』のために多くの命を奪ってきた。 そう自分と同じように。 いや、裏切り者の粛正という点では彼女の方が何倍も命を奪ったはずだ。 かつての同志の血に手を染めて。 私は彼女を傷つけようとしている。 だが、言葉は止まらない。 「私は信念に従って戦っているのだ」 ヴァイスハウプトはリヴィーナと真正面から向き合った。 「ただ、私たちがいなくなった後のことを考えると怖いのだ」 ヴァイスハウプトの声音は、リヴィーナが聞いたことがあるどの声よりも 弱々しかった。 「戦ってきた日々が幻のように、そう、雨のように消えてしまうことが 恐ろしいのだ」 「アダム……」 リヴィーナはヴァイスハウプトをファーストネームで呼び捨てにした。 声音がまた変わっていた。 鈴の鳴るような透明な声音だった。 まったく感情がない。 平板で抑揚のない機械的な声だった。 「我々は正しいのです。我々には続く者がいるのです。 我々の意志は無限に受け継がれていくのです」 用意されたセリフを読み上げるように、 棒読みの口調で喋るリヴィーナ。 「人は愚かです。ですが、我々は人間なのです」 そう、我々は人間に生まれた。 それは、もうどうすることもできない。 「神には成れませんが、神を超えることはできます」 神ではないゆえに成長できる。 かつて、リヴィーナに魔術を教えたアルシャンクも言っていた。 人は無限ゆえに、絶対たる神を超え得る存在だと。 「私は神に人を裁かせたくはない。人間を裁くのは人間だけです」 「君が裁くのか?」 ヴァイスハウプトの問いにリヴィーナの肩が震えた。 「私は傲慢なのです、アダム」 リヴィーナの声は物理的な力があるかのように、 ヴァイスハウプトに圧力をかけてくる。 「だからこそ…」 大きく息を吸いこむ。 「だから、こそ! 我々は正しくなくてはいけないのです! 一切の例外なく!」 今までとはうって変わって表情で、甲高い金切り声を上げた 「この手を血に染め! この身を血に染め! この魂を血に染めてでも!」 激しく興奮し、リヴィーナは絶叫していた。 そして、魅入るようなヴァイスハウプトの視線に気づき、 荒れた息を整え始める。 「はぁ…、はぁ…、はぁ…」 呼吸を整え、リヴィーナは声を鎮めた。 「……バカな話をしました。お許しください。六月様」 「リヴィ…」 ヴィアスハウプトは優しく、リヴィーナの髪を掬った。 そして、髪に口付けをする。 「もう迷うまい…」 六月。 昼間の時間が最も長くなる夏至が過ぎ、 鬱勃とした梅雨が去れば、盛夏が訪れる。 そう暑く、空の澄み切った、晴れ晴れとした季節が。 |