FOW閑話シリーズ
遺言

作者 エルさん

 偉大なるドン・べェルレッタは、必死に死神を退け、
 一時の安息を手に入れていた。
 だが、もう死という終着駅への線路はできあがっている。
 高齢にしては精悍だった顔は、病魔によって蝕まれていた。
 絶え間ない熱と苦痛により、頬はこけ、肌は枯れ、骨が軋む。
 ドンの実弟、カルロスはドンのベッドの傍らで、
 変わり果てた兄の姿に心を痛めていた。
 だが、既にドン自身もカルロスも、残された時間が少ないことを
 理解している。
 やがて訪れるであろう死の場面を正面から受け入れていた。
 だから、カルロスは、ひたすらにドンの娘であるモニカの到着を
 待ち続けていた。

 モニカ、早く来い。
 俺にも、医者にも、もうできることはない。
 早く来て、兄貴を救ってくれ。
 兄貴の苦痛を和らげることができるのは、娘のお前だけなのだ。

「カルロス」
 ドン・べェルレッタは、弟に声をかけた。
 声に以前のような張りはなかったが、はっきりとした口調だった。
「おまえに、……おまえに最後の頼みがある」
「何でも言ってくれ。神に誓って、全力で応えよう」
 カルロスは兄の左腕を力強く握った。
 弱々しい脈の感覚が伝わってくる。
 ドン・べェルレッタは、弟の顔を空いる右手で撫でた。
「ファミリーのことを頼む」
 全力で応える。
 そう誓ったカルロスであったが、兄の言葉に対して
 顔を不服そうに歪めた。
「兄貴。俺を見損なったのか?」
 カルロスの口調は死に行く者への言葉とは思えぬほどに厳しかった。
 微かな戸惑いを見せる兄に、弟は穏やかな口調に戻って続けた。
「人将(まさ)に死なんとするその言やよしという」
 ドン・べェルレッタは、カルロスの言葉を静かに聞いた。
 長たるものは聞き上手でなければならないというのが、
 ドンの信条だった。
「だが、兄貴の今の言葉は俺に真実を告げていない。
 俺は、そんなに信頼に足らん弟であったのか?」
 相手の要求することを理解し、最良の応えを返す。
 それが例え、相手の求めるものに対してノーであったとしてもだ。
 できるだけ、相手を傷つけず、そして、決してこちらの不利に
 ならぬように。
 双方の利益を示して、まずは説得する。
 脅迫することは決してしない。
 脅しは不利益を生むだけだからだ。
 何度説得しても耳を貸さない相手の時、初めて武力に訴える。
 それが、ドンのやり方だった。
「兄貴は良いドンだったよ。
 だが、死に際には、そんな肩書きは無意味だ。
 兄貴にはファミリーより大事なものがあるはずだ」

 偉大なるドン・べェルレッタ。
 助けを求めてくる者を拒まず、裏切ることのなかった男。
 友人が貧しく微力であっても決して足蹴にしたりしなかった男。
 彼の父親がかつてそうしたように友人と友人の家族を信頼し、
 友人と友人の家族から信頼されて、先代から受け継いだ帝国を
 拡大してきた男。
 今や、イタリアの政界にまで影響を及ぼすほどの権勢を持つに至った、
 彼の帝国"べェルレッタ・ファミリー"こそが彼の偉業を物語っていた。
 彼は"ファミリー"を心から愛していた。
 だが、カルロスは言う。
 ファミリーより大事なものがあるはずだ、と。
 それは、確かなことだった。
 ドンはカルロスの言葉を認めていた。
 弟の言いたいことを理解していた。

「カルロス…」
 ドンの枯れた頬に涙が伝った。
 そして、濡れた声で言葉を紡ぎ出す。
「私たちの父親は素晴らしい漢だった」
「ああ」
「私たちの母親もイイ女だった」
「ああ」
「そして、私の妻は賢い女だった」
 カルロスは、にやりと笑った。
「だが、アイツには敵わねえぜ。アイツはイイ女で、頭の回転も早い。
 しかも素晴らしい漢にもなりえる娘だ」
 そして、兄貴のように"誇り高い"のだと、
 カルロスは心の中だけで付け加えた。
「私は、……私は幸福者だ」
 ドン・べェルレッタは大きく息を吸い込み、ゆっくりと吐いた。

「モニカを……頼む。あの娘を……あの娘を幸せにしてやってくれ」

「任せろ」
 娘の幸せを願うのは親として当然すぎる願いなのだ。
 カルロスは短く、そして力強く応えた。
 ドン・べェルレッタは思った。
 私は良い父母を、良い娘を、そして、良い弟を持った。
 その感動で、ドンの瞳から止め処なく涙が溢れた。
「だから、兄貴。まだ逝くな。
 モニカが来るまで死神に魂をやるんじゃないぜ。
 親の死に目にあえないのは最大の不幸だぞ。
 これだけは俺にもどうにもならん」
「わかっているさ。
 あの娘に話しておきたいことは、まだ山ほどあるんだ」



 偉大なるドン・べェルレッタの娘にして
 後継者であるモニカ・べェルレッタが、
 ドンのゴッドドーター(ゴッドファーザーに名前を授けられた
 義理の娘)であるミネルバと
 僅かな側近を伴って到着したのは、それから三十分後のことだった。
 ドンは涙で赤く目を腫らすミネルバにも優しく言葉をかけ、
 側近たちにも遺言らしきものを残すと、
 モニカを残して全員へ退室するように命じた。

 偉大なるドン・べェルレッタが人生の幕を閉じたのは、
 さらにそれから一時間の後であった。
 その間、モニカが部屋から出て来ることはなかったし、
 部屋に入る者もいなかった。
 ただ言えることは、ドン・べェルレッタの死に顔は、
 とても幸せそうだったということだけだ。

 皆が退室した後、父娘が何を話したのかは誰も知らない。
 モニカは語らなかったし、誰も尋ねなかった。
 聞けば、モニカは何を話したか応えてくれたかもしれないが、
 誰も聞かなかった。
 聞く必要もなかった。

 それは最後の親子の団欒であり、語らいであったに違いないからだ。


 

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