『アンノウン・キング』

21


(前)
 「え」
 ドアを開け、マイク・ドースンは思わず声をあげた。そのまま隣のバスルームへ転がり込もうとも思った。彼の目の先で、出かける前は確かに眠っていたはずのロイ・ベーカリーが、黙々とプッシュアップを繰り返していた。漏れる吐息、汗の量から見ても彼がその熱心な行為をはじめてだいぶ時間が経っていることが窺える。恐らくは、マイクが出かけた直後だろうか。彼は、起きていたのか。部屋を出たことを知っていたのか。
 マイクは無意識の内にボアコート内側に忍ばせたファイルに手をあてていた。
 「こんな遅い時間にトレーニング…ですか」
 なんとか普通に言いたかったが、声が微かに震えていた。気づかれていないことを祈る。浮気がばれた夫のように、彼の心は臆していた。だが、彼はすぐにこの畏れが無意味であることを悟った。
 マイクに気づき、立ち上がったロイの声は意外にも普通で、温和な響きが漂ってさえいた。
 「お前こそ、こんな時間に仕事か。世話ンなるな」
 「あなたのための名誉ですから」
 「ああ。そこはしっかり押さえておくことだ」
 不遜ではあったが、その言葉はマイクを安堵させるのに十分だった。まさか自分の仕事を労ってくれるとは、思いもしなかった。
 「追加の代金は払おう。いくらだ」
 「え」
 「いくら欲しいんだ」
 これも意外だった。昨日話していた金の話については半ば諦めていた。
 ロイ・ベーカリーは王錫で人々を否応なく跪かせる暴君かと思っていた。だが事実はそうでもないらしい。彼は自分の仕事に対し、多少なりとも敬意を払ってくれているのだ。
 さて、代金?そういえばそいつは言ってなかったな。
 「…これだけいただければ」
 思い切って、マイクは五本の指をロイの前で立てていた。
 この規模の仕事(しかもほとんどドンキホーテの尽力によるもの)で、500ドルは馬鹿げていた。だが、いま彼の関心は別のところに注がれていた。
 彼は相手の反応が知りたかった。
 今、彼はロイ・ベーカリーの“情報”を収集している真っ最中だった。ペテンとハッタリはこの仕事で生きていく上で欠かせない大切な能力だった。
 さあ、どうする?チャンプ?キレるか?叫ぶか?罵り、汚い言葉を吐くか?そして殴るか?お前を見せてくれ、ロイ!
 ロイ・ベーカリーはタオルで身体を拭きながら、マイクの目をじっと見ていた。相変わらず馬鹿でかい腕だ、とマイクは思った。そして自分はこれからこの“モンスター・アームズ”で殴られるかもしれないのだ。
 だが、意外にもロイは頷くと、バッグの元へ歩いていき、自分の財布からマイクが最も欲しいもの、5枚の紙幣を取り出した。
 「これで満足してもらえるのか」
 「…いいのか?」
 「ああ。考えてみれば、お前が俺に例のイカれ野郎を捕まえさせてくれさえすれば、俺は巨万の富を手に出来るわけだからな。俺を見下し続けた野郎どもを見下せる時代が再来するわけだ。そのころの俺にとっちゃ500ドルくらい、ただの紙切れにすぎないだろう」
 「チャンプ」
 マイクは差し出された500ドルを受け取れずにいた。
 「勝てると思いますか?そのイカれ野郎に?俺の予想じゃ、素手で心臓を抉り抜けるような、とんでもない狂人ですよ」
 「ああ」
 ロイは落ち着き払った態度で言葉を返した。何の不安も感じられなかった。
 「お前は俺を知っているだろう?モンスター・アームズを知っているだろう?」
 マイクは頷いた。もちろん知っている。リングで暴れる目の前の男の姿は見ていて爽快だった。白人を相手に、それこそ怪物のように暴れ回るチャンプ。彼はヒーローだった。
 「俺はな、銃が無いとやっていけないようなあの連中とは違うんだ。この拳一つで俺は生き抜いてきた。これからもだ。こいつが“俺”なんだよ、マイク。モンスター・アームズがロイなんだ」
 「あなたのための名誉…」
 「ああ。こいつのための名誉だ。こいつを信じな、マイク」
 マイクはドンキホーテからもらったファイルを取り出し、自然と笑みが浮かんだ。しわくちゃの顔が広がる。
 「全ては、順調です。こいつの出所は言えませんが、十分すぎるほどのデータを含んでいます。宣言しておきましょう。あなたが目覚める頃には例の4つのエリアを1つに絞ってみせます。あなたがイカれ野郎に出会えるチャンスを少しでも多くするために。どうか今日はお休み下さい。私はあなたの役に立ちますよ、チャンプ」
 「ふん。頼りにしておこう」
 ロイ・ベーカリーは満足そうに頷き、そのまま眠りについた。マイクは書き物机にファイルを広げ、眼鏡をかけると仕事に取りかかった。

 


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