REPTILE2


おれにもう眠りはこない   
       シェイクスピア『マクベス』


 すでに時刻は正午をまわっている。
 男は震えた腕でライフルを置き、人々の視線を警戒しながら、ゆっくりと窓から顔を出した。まだ予定の時刻には達していないが、外の状況を把握しておく必要があった。彼はいま失敗の許されない状況に立たされていた。
 外は人でごった返していた。付近の住民たちのほかに、他の州からやって来たのであろう写真屋や新聞記者たちの姿も見られる。人々は口々に声をかけあい、来るそのビッグイベントを今か今かと待ちかまえていた。拳を振り上げて吼える者もいる。親を離れて駆け回る子供達もいる。勤務中と思しき制服姿の男もいる。その誰もが内外に興奮を抱えていた。
 「失敗は許されない」
 男は再び身を潜め、銃身を握って独り言を呟く。
 「失敗はない」
 弾の確認をする。数十分前にも確認はしたが、何かをしていないと落ち着かなかった。
 彼は一瞬、気を失いかけた。
 極度の緊張からと、ここ数日の疲弊の両方が重なって彼の脳を揺さぶる。やがて楽になると、次は頭を垂れ、ぶつぶつと祈りの言葉を呟く。彼の精神は正常と狂気の間を漂っていた。今日食べた朝食の記憶も定まらないが(それ以前に、今朝は飯を食えただろうか?)、これから為すべきことだけははっきりしている。そしてこの仕事は今までの仕事とは桁外れのデカさであることも。
 男は来る前に買っておいたコーラの最後の一口を飲み終えた。
 再び窓へ目をやる。先ほどよりも騒がしくなっている。近づいているのだろうか、その時が。
 「やろう…」
 本日何度目かの確認をしようと銃に手をかけたとき、男は声を聞いた。重く、ずっしりとした威厳のある声が男の耳元で呟く。
 「これは“歴史”だ。リー。お前が歴史を回転させるのだ」
 そして声は最後にこう言う。「正しいことをなせ、リー」
 長く対ソ諜報部員として教育を受けてきた男は、すでに何が悪くて何が悪いといった道徳的判断能力は欠いていたが、少なくとも「仕事」を遂行すること正しさだけは理解できた。自分に課せられた「仕事」をすることが義務だった。一体、なぜ自分はこういった立場にいるのか?依然として記憶ははっきり定まらない。自分は操り人形になってしまったのだろうか?そう考えたこともある。だが、彼は決まってこう思い直すのだった。操り人形でもいい。人形ならば人形で、劇を演ずるまでのことだ。
 「失敗はしないさ、ミスター……ミスター…あんたは誰だ?」
 外から歓声が上がった。雷のような歓声。一台のオープンカーが熱狂的な歓迎のなかを進んでいく。オープンカーの中から一人の若々しい男性がにこやかに手を振って応えている。
 「大統領!」
 「大統領!」
 わたしをゆるせ、大統領。
 
 男はライフルを構えた。
 そして銃声が響き渡った。

 ダラスの町が惨劇と化す。たったいまの歓声が悲鳴に変わる。
 人々はショックを受けながら、この異常な状況を把握しようと努める。
 否、ダラスだけではない。この日、世界が見ていた。
 この20世紀最大の事件の一つは世界に目撃された。
 男の凶弾が大統領の脳漿と共に歴史を飛散させた。

 男、リー・ハーヴェイ・オズワルドは潜伏場所を飛び出すと、口笛を吹き、黒人の運転する車に乗り込んだ。一体、この黒人は誰だったろう?オズワルドは記憶はやはり定まらないが、今や気にする必要もないように思われた。なにもかもが気にする必要がないように思われた。彼にとって全てが無意味だった。
 「I'ts all over now.(これで終わった)」
 オズワルドは呟き、汗が染みついたライフルを車内に放った。
 世界が驚愕と混乱に包まれているなか、オズワルドだけが一人落ち着いていた。

 リー・ハーヴェイ・オズワルドは二日後、射殺される。


 


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