『REPTILE』


 二度。
 間違いなく二度。
 黒きその存在は、足元に横たわる男の頭を、二度踏み砕いた。肉が軋み、歪み、裂け目から黒紅色の液体が滲み出た。男の意識は、もはやあるまい。
 黒きその存在は、ゆっくりとその二撃目の足を上げると、コートを翻し、暗い露地へと消えていった。月すら認められない深淵の夜。ただその存在の足音だけが響き渡る。
 そこはニューヨーク。
 アメリカ東海岸に位置し、世界中の金、人、物の集う街。

 見るところ、ドイツ製であろうか。黒色の高級車が、大通りを抜けていく。ひとつ、ふたつ信号を超え、巨大な建造物の前に停車した。建造物の入り口には、明朝だというのに、煌びやかな制服を身に着けたボーイたちが数名でそのドイツ車の到着を待ちわびていた。胸章には『HOTEL UPPER SEAT』の文字。
 まず車内助手席から、黒いスーツの男性が降り立った。男はボーイたちに目もくれず、後部座席のドアを速やかに明ける。内部から、初老の男性が葉巻を咥えながらのそりと姿を現した。空に恰幅のある身を晒し、ホテルを見上げる。ボーイたちはその初老の男性を『例の客』を見受けると、即座に荷物へと手を伸ばした。初老の『例の客』はヒュゥと煙を吹き出し、ホテル正面玄関へと歩を進めた。

 初老の『例の客』は二人のボーイに先導されて、明らかに一般用とは異なる広居へ案内された。客は一人ではない。彼を取り囲むように、三人の部下が常にサングラスの下から目を光らせている。
 『例の客』を窓から離れた席に座らせると、その脇に部下が二人立った。もう一人は、すぐさま部屋の入り口に立つ。慣れた動作であった。『例の客』は再び煙を吐いた。

 二、三分して、ガチャリとドアノブの回る音がした。すでにロックを施してあるので、易々と入ることはできない。入り口に立つ男が訪問者の顔を確認する。男はすぐにロックを外し、訪問者を迎え入れた。頬髯を生やした中年男性。高級そうなスーツ身を包み、胸章はボーイたちと同じものを装飾している。訪問者が二歩、部屋へ踏み込んだときには、すでにこの部屋への入り口は遮断されていた。
 「相変わらずだな、トム」
 トムと呼ばれた頬髯の男は背筋が前かがみになっており、表情も入室時から申し訳なさそうにしていた。
 「本日は、どういったご用件で」
 トムはぼ弱弱しい声で訊ねたが、初老の『例の客』は答えなかった。
 答えない理由は知れている。トムは、分かっているからだ。今日、どういった目的で目の前の男が来たかを。
 「あの件なら」
 トムから切り出そうとしたところで、『例の客』が言葉を遮った。
 「このホテルをくれたのは誰かな、トム?」
 オーナー・トムの表情が悪化するのを、二人のボーイは見た。
 畏怖している。
 「………」
 「お前の組織力、如いては経営力を見込んで、おれの財産の何割かをお前にくれやったよな、トム」
 トムは沈黙している。
 「そう、おれがくれてやった」
 しばしの沈黙。
 「情報なら」
 トムの震える声。だが再び『例の客』が遮った。
 「もう一度、おれの側に戻るか?トム。今度は参謀なんて地味な役はさせない。組織の第一線……殺し、誘拐、運び」
 「信じてください!」
 トムは半ば絶叫のような声でいった。
 「いましばらく辛抱を。必ずや仕留めてみせます」
 『例の客』の口から、間欠泉のように多量の煙が吐き出される。
 トムはつづけた。
 「私の手で、必ず、必ず“レプタイ…!」
 その単語を言い終わらぬうちに、トムは再び震え上がった。目の前で葉巻を吹かしていた男が、立ち上がったのだ。その顔は憤怒に満ちており、部屋中の誰もが、すくみあがった。
 「一週間待つ!トム!その間に事態が進まないようだったら、分かってるか!」
 トムの顔を冷や汗が滴り落ちる。彼は、“自分のありとあらゆる死に様”を創造した。そのどれもが、非人道的な、生命ある者なら誰もが避けたい死に様。トムの体内を、嗚咽が襲った。
 「必ず、あの爬虫類をおれの目の前に連れてこい!」
 『例の客』は叫ぶ。
 トムは、自らの指揮下にある給仕の目の前で、両膝をつき、呻いた。





第2話に続く
図書館に戻る