『REPTILE』
12(終)
トム・ガーフィールドは、もうすぐ死ぬ。
老いたその身がやがて朽ちていく事実は変わらない。だがその「もうすぐ」に関わる時間も、現段階においてはあと数日、数ヶ月、数年あることは予測できた。トム・ガーフィールドはいずれ死ぬが、幸いにしてまだ呼吸していた。
彼が目覚めたのは、ニューヨークの総合病院だった。
あの一件から三日後の朝だった。
患者用のベッドに仰向けになり、喉には分厚い包帯があてがわれ、皺だらけの体に何本かのチューブが通っていた。室内には自分のベッドしかないが、一般用の入院室らしい。一般用、ということは、捕まっていない、ということだ。
トムは上体を起こし、右側の窓を見た。
窓からニューヨークのストリートが見下ろせた。様々な型の車が、列を組んで走っている。
トムは、生きていた。
「失礼ですが、トム・ガーフィルドさんですかな」
部屋の入り口から声がした。驚いて振り向くと、そこに山高帽を被った黒服の男が立っていた。年齢は自分に近かった。
トムは、男の放つある種の存在を嗅ぎ取っていた。
かつてトムの歩んだ道で、その臭いを察知できないということは不利だ。
入り口に立った男は、間違いなく政府関係者だった。それも、雰囲気からして諜報部の誰某に違いない。
トムは鋭い目を男に向けた。
「いかにも、私だ」
自分がどういう経緯でこの病院に入院できたのかは分からないままだったが、諜報の人間がこの部屋に入ったということは、自分に対してなんらかの措置をとるために来たのだろう、とトムは思った。同時に覚悟した。一度は捨てた命であった。
対する山高帽の男はトムの言葉を受けるとにこやかに笑い、ベッドの傍らまで歩いてきた。
「怪我の具合はいかがですか」
トムは唸った。
「怪我の具合、というよりはあなたの素性のほうが私にとって重要かもしれないな」
山高帽の男は苦笑し、帽子をとって小さく頭を下げた。
「これは失礼、ミスター・ガーフィールド。私の名前はグレイヴィ・マリンヴィル」
グレイヴィはさらりといった。
「CIAに勤めています」
トムは微笑し、グレイヴィの真っ直ぐな目を見た。
それみたことか、いまに私をひっ捕まえて、監獄にぶち込むつもりなのだ。
トムは上半身を再び倒し、天井を見上げながらつぶやいた。
「一応、聞きましょう。ご用件はなんですか」
グレイヴィは山高帽を被り直すと、厚さが1センチはある資料を懐から取り出した。
「やはり状況を把握していないと見えますな、ミスター・ガーフィールド。我々はあなたを捕まえようなんて思ってません」
「どういうことだ」
状況が飲み込めなかった。
グレイヴィと名乗るこの男は、明らかに自分の素性を知っている口ぶりだった。
「あなたは三日前、マンションの屋上で発見された。我々CIAの諜報部員の手によって。ここが重要でした。感謝してもらいたいものです」
トムはグレイヴィの話に聞き入っていた。
「失礼かもしれませんが、CIAはあなたの置かれている状況を把握しています。あなたは7年前にダグレイを縁を切っておいでだ。だが金銭面を援助してもらっていたということもあり、今回レプタイルの調査を無理強いさせられた、と」
トムは怖い思いがした。
個人の情報を、境遇を、ここまで握っているものなのか。
「同情する余地があります。そしてなにより、そのことをあなたの部下たちが語ってくれました。ミスター・ガーフィールド、我々をあなたをホテル・アッパーシートのオーナーとして見るつもりです。まあ、退院後に一つ二つ事情聴取させてもらいますがね」
ようやく合点がいった。
皮肉なことだが、元マフィアのトムは敵であるCIAに救われたのだ。
それも、同情、という実に人間味のある理由で。
「部下たちはどうなった」
どうしても聞いておきたい事柄だった。
あの場に連れていった部下たちには、とにかく謝っておきたかった。
グレイヴィは笑みをこぼし、「全員無事です」といった。
さらにグレイヴィは事件の結果をこと細かくトムに知らせた。
ロンドンの集団は二名の遺体を回収し、主導者と見られる男の身柄を確保したということだった。遺体は頭蓋骨に広い皹が入ったものと、頚骨が外れているものとだったそうだ。主導者らしき人物は精神的に不安定らしく、まともに質問に答えようとしないという。トムはこれを「始末された」状態と呼んだ。確認できたのはその三名のみで、残りは調査中ということだった。
「さて、私がここに来た理由の最も大事な部分はこれだな。おそらく、あなたも気になってらっしゃるだろう」
ダグレイ・マッケランのことだった。
彼はもうこの世にいなかった。裏路地にダグレイの遺体だけが残っていた。
「fiddleは終わった」
「依頼したのは、あなた方か」
「言うまでもなく」
トムは茫然としていた。
自分を縛っていたものの死に解放された思いがするとともに、なんともいえない寂寥感が彼の心の浅い部分を漂っていた。
同時に、自分はどうして助かったのだろう、と思った。
ロンドンの始末屋の一撃を受け、生死の間を彷徨ったが、結果として生を得た。
必死に足掻いた主人は死に、覚悟を決めた自分は助かった。
「レプタイルは」
グレイヴィはしわがれた声でいった。
「彼なりの信条があります。標的を悪たる者に絞る、というものです」
トムはまだ深い思慮から覚めきれぬ心持で、グレイヴィを見上げた。
「この世界を暴力と金で脅かす連中が対象でない限り、依頼を請け負ってくれんのです。暴力で暴力を制す、暗い矛盾に生きる輩なのですよ」
トムは嘆息した。
「迷惑な話だ。私はその一人の男のために、ここ数日ろくな目にあってない」
トムはいい、グレイヴィから資料を受け取った。
「大まかなことはここに書いてあります。是非、ごらんになってください。オーナー・トム」
グレイヴィはいった。
「いったい誰が正しいかなど、我々は明確に判断することができないものです」
山高帽の男グレイヴィは、部屋を後にした。
部屋には再び、トムだけが残った。
不安定な世の中だとトムは思った。
誰が死ぬか、誰が生きるかわからない。どれが正しくて、どれが正しくないかも分からない。そういう世の中に自分は生きていたのだと実感した。
トムは資料を身体に乗せ、再び窓から街を見下ろした。
やはり道路には何台もの車が忙しそうに走っている。
車も、人も、電気も、全てが忙しそうに走っている。
ばらばらの音が一つになってトムの耳に入っていった。
車が動いている。ニューヨークも動いている。世界は動いている。ここから離れたホテル・アッパーシートも動いているだろう。
トムもまた、動いていた。
真実の分からない不安定な世界に、トムは動いていた。
このあとどうするかだった。どう動くかだった。
トムは懺悔することを誓った。過去の悪事を取去るべく、自分の仕事に打ち込むことを誓った。
種を蒔くことは穫り入れほど困難ではない。
レプタイルによって揺らがれたトム・ガーフィールドの人生は、同じくレプタイルによって、再び針路を修正し始めていた。
誰が正しいのか分からないなら、己の信条のまま生きること。
それが冥福を迎える方法なのだと、トムは思った。
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