『REPTILE』
11
「終わりです、ボス」
ダグレイ・マッケランは、二年前に仕事で会った東洋人の言葉を思い出していた。人は死ぬ瞬間になると過去のさまざまな出来事を思い起こす、という。走馬灯、たしかそういったか。当時のダグレイはその話をただの怪談の類として流していた。とりわけ東洋人は人生を廻りゆくものと考えているものだ。合理主義者のダグレイに言わせれば、走馬灯は迷信だった。
しかし、いま彼の内を廻っているのは紛れもない自分の記憶だった。
ニュージャージーに生まれ、弟とともにアメリカ黒社会の頭領へとのし上がったダグレイ・マッケランの記憶だった。幾度となく停止を試みたが、止まることはなかった。生命の危機に瀕し、過去から存命の手段を探っているのか、それとも、いまこのあいだにダグレイという人間の裁きが行われているのか。
「わっ」
思わずダグレイは声をあげた。過去数十年にわたって出したことのない、情けない声だった。
「終わりです、ボス」
ダグレイは車のなかにいた。ドイツ製の黒塗りである。前に運転手と組織の補佐役が座り、ダグレイの両脇には屈強な黒人が二人座っている。全員がいままでにないほど震えていた。彼らだけが分かる恐怖だった。
車は動かない。
どうやったのか、分からない。
ダグレイは、ハイウェイ・カーペットだと思った。
何百もの釘が埋められた金網である。普通、警官がスピード違反者を捕まえるときに使用する。レプタイルがそんなものを所持しているかどうかは疑問だが、そう考えなければ、ダグレイの頭は落ち着かなかった。
「終わりです、ボス」
前部に座る補佐役がいった。三度目だった。三度目だったが、先の二度はダグレイの耳に届いていなかった。このときにして、はじめて届いた。冷たい無生物の声に聞こえた。
「終わる?」
ダグレイは突如、たとえようのない怒りに見舞われた。その拳ですべてを壊してやりたくなった。
「終わるだと?ジェイムズ!終わるはずがない!終わってはならない!」
正面のイスを背後から幾度となく殴りつける。
補佐役は青い顔でフロントガラスから正面を見ていた。
黒い影が、曇天の夜を歩いていた。
一歩、一歩と近づいてくる。
「レプタイルっレプタイルっ!あの野郎だっ、あの野郎が来るぞ!」
ダグレイは叫び、運転手を叩いた。すぐにこの車を“飛ばせ”とでもいうような表情だった。
「アイリッシュの犬野郎どもはしくじったんだ!トムもだ!」
ダグレイは叫ぶ。
「ジェイムズ、書きとめろ、この件が済みしだい、老いぼれトムを大西洋へ投げ捨てる、とな!」
ジェイムズは首を振った。
「無事に済むとお思いですか、ボス」
ダグレイは顔を真っ赤にし、ジェイムズを殴った。
ジェイムズは無言で受け止めた。その目は主人に対し、なにか言いたげだった。
ダグレイは察した。どうして早く気がつかなかったのだろう。
十年近く私の傍にいたこの男が、情をもたない冷血人間だということに。
「ああ!そうか!そういうことなのだな!ジェイムズ!」
ダグレイは一層声を荒らげ、車から降りた。
脇に座っていた黒人が引きとめもしなかったことには内心腹が立った。
冷たい空気がニューヨークの裏路地に充満している。
月はやはり見えなかった。
「ふん、オレ一人が決着(ケリ)つければいい。そういうことなのだろう!」
ダグレイは正面を向き、レプタイルを目で捉えた。
懐に手を入れ、拳銃を握る。
レプタイル一歩一歩とゆっくりと近づいてくる。頬に薄い傷痕が見られるのみで、服も、髪も乱れていなかった。ブラッド・デル率いるロンドンの連中がどれだけ意味を持たなかったかが分かる。
ダグレイは依然として憤慨していた。
その矛先はいまやレプタイルのみだった。
どうしてオレを始末する?オレはたしかに無法者の長だ。
だが、いったい、それがお前にどう関係あるのだ。
レプタイル!お前はどうしてオレを始末するんだ。
「どうしてだ。レプタイル!なぜオレを狙う!」
ダグレイは銃を取り出した。鉛の玉が吐き出された。
空気を貫いた弾丸は、しかしレプタイルまでは貫かなかった。
次の瞬間、走ってくる。レプタイルが。
ダグレイの目の前に巨大な爬虫類がいた。
いまにも呑み込まれそうなイメージだった。
(これで目を覚ませばベッドの上だ――)
爬虫類の影が目の前で伸びる。
(オレは夢から覚め――)
ブラッドの指よりも硬いレプタイルの拳が、ダグレイの腹部に埋まった。
(こ――――夢――)
ダグレイのヴィジョンはそこで停止した。あとに見たのは砂嵐も、ノイズも走らない暗然とした虚空だった。
自分が終わる感覚があった。真っ暗な穴に吸い込まれていく感覚が。
最終話に続く
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