『アンノウン・キング』

24


 2月4日11時10分。
 誰よりも早く動き出したのは巨大な腕を持ったヘヴィ級のボクサーだった。ロイ・ベーカリーは黒のトレーニングウェアを着込み、一人で路地へと足を下ろした。彼をここへ導き、手際よく犯人の出没区画を特定したマイク・ドースンはすでにいない。彼はロイから受け取った今回の料金をバッグに詰め込むと、今朝の朝一番にバスに乗って帰ってしまった。
 「もし奴に会えなければ、あるいは今夜その場所で事件が起きなければ、またあるいは目撃者が現れなければ、お金は全てお返しします。そしてまた探してあげますよ」
 彼は帰り際にそう言い、文書にしておいたほうがいいですね、と鞄から一枚の高級紙を取り出すと、その旨の内容とサインを記し、ロイに手渡した。
 ロイはもうその紙をどこにやったのか忘れてしまった。
 高ぶる闘争心が彼を支配していた。いま、彼の目の前に立つ者があれば、問答無用で殴り飛ばしてしまいそうだった。懐かしい、試合前の興奮。ルーキーとのつまらない試合では得られない興奮。己を解き放ち、生死を賭けた本当の闘いに挑む前の興奮。自分を野生に帰すことの心地よさ。
 彼はライオンだった。“生きる”ために彼は狩猟に臨んでいるのだった。生命を取り返すために。
 
 
 2月4日11時26分。
 闘犬ブルドッグ・ジョーは、昨日の自分の行為が正しかったのかどうかを改めて思い返した。アート・コーポランドに犯人の出没場所を教えたことは、果たして自分にとって良かったことだったのかを。
 叔父のケヴィン・ビジーは申し出を快く受け入れてくれた。
 ケヴィン曰く「兄貴には世話になったからな。ま、どう世話になったとは言えないが」とのことだった。
 ジョーは柄にもなく頭を下げ、柄にもなく感謝した。
 何より彼を励ましたのはケヴィン・ビジーがストリートファイターを悪く思っていないことだった。ケヴィンがジョーの相談を承諾したのはアートたちの同盟について話してからだった。警察ならば、本来取り締まる側の人間だったはずだ。それにも関わらず、彼は笑って頷いた。
 ケヴィン・ビジーにしてもアート・コーポランドにしても、別の立場にありながら、胸中は同じだったようだ。
 怒り。自負。団結。
 「自分のケツは自分で拭くぜ」
 そういう思いから、ケヴィンはアートたちを同志と見なし、協力を進み出たのだろう。余所者を排斥していくことまではさすがに考えていないだろうが、少なくともケヴィン・ビジーが“こちら側”だということは話してみてよく分かった。
 “こちら側”か。
 ブルドッグ・ジョーは苦笑した。巨体を揺らしながら、道の真ん中を闊歩していく。アート・コーポランドはもうこのエリアに来ているだろうか。俺が教えたこのエリアに。
 いずれにせよ、ブルドッグ・ジョーはゲイリー・カジノブの仇をいますぐにでも討ちたかった。
 まあこいつにしても、アートの野郎も同じことを考えてるだろうが。


 2月4日午後11時34分。
 脂ぎった金髪を肩まで伸ばしたその男は飲み終えた缶ビールを宙に放った。男が一歩踏み込み、大腿部を跳ね伸ばすと、アルミ缶は大きな音を立てて虚空の彼方へと消えた。途轍もない距離をアルミ缶は舞っていた。男は振り返りながら、満足そうに微笑んだ。彼の背後には三人の屈強な男達が腕を組んだり、体を揺すりながら立っていた。
 「ジョーの話は信じられるんだろうな?アート」
 腕組みをした男が言った。彼は寒い2月の夜風に身を晒しながらも黒いTシャツ1枚だった。しかし寒さに凍えている様子はまったくなく、むしろ全身の入れ墨が誇らしげに映えていた。
 彼は入れ墨だらけだった。
 「ジェリコ。大丈夫だよ、あいつは信頼できる」
 アルミ缶を彼方に吹っ飛ばした男、アート・コーポランドは長い金髪を掻きながら言った。隣でスキンヘッドの男がクツクツ笑った。四人の中で最も鼻が高く、最も肌が白かった。
 「オーケイ。俺は信じるぜ」
 白い肌の男が言った。
 「俺は実際、あいつがアートにこの話を教えた時にその場に居合わせたからな。あいつの目は本物だったよ。ジェリコ、間違いない」
 「ニコライの言うとおりだ。あいつの目は本物だった。闘ってる時の目だ」
 入れ墨のジェリコはそれでも不服そうに舌打ちし、彼らから少し離れてウォームアップを開始した。
 「本当に俺たち四人でいいのか?」
 体を揺らして体を温めていた大男が言った。何より印象的なのはその頭だった。地面から6フィートほど離れた高さにある頭から、棘のように鋭い髪の毛があらゆる方向に向かって突き出ていた。髪の毛は完全に固定されていて、風に靡くこともなかった。
 アートは頷いて答えた。
 「不安か?サム」
 「そうじゃあねえがよ、もっと大勢のほうが見つけやすいと思ってな」
 「下手に人数を増やすと、犯人も流石に察して現れなくなるかもしれねえだろ。増やせばいいってものじゃないぜ。できるだけ小規模で最強の布陣を、だ。そうなると、この四人がベストメンバーだろう。まだまだガキのダニーや手負いのグレンを連れていくわけにはいかない。年数の足りないルーキーや、贅肉ばかり増やしたロートルなんざ以ての外だ。俺たち四人で十分だよ」
 「それ」
 ニコライ・フォクトナーが指を指して訊ねた。
 「グレンのやつ、負けたってホントか?」
 「ああ。確からしい」
 「へぇ。そりゃグレンは俺たちの中じゃ最弱かもしれねえけど、この町であいつに勝てる奴となるとそうとう限られてくるはずだが?一体誰が相手だったんだ?」
 「グレッグ・バクスターって奴を聞いたことあるか」
 「ヒュウッ」
 アートの口から出た言葉にニコライは手を叩いて笑った。ゲイリーの友人をしていれば、その名前はもちろん聞いたことがある。
 「驚いたな。そいつがこの町に来てるのか。グレンも相手が悪かったな」
 「いや、グレンを倒したのはそいつじゃない。バクスターの連れだ」
 「連れ?」
 「ああ。数秒で終わらせたそうだ。さらに、そいつらの後ろにはシンシアがいたらしい」
 「ゲイリーの恋人か?俺たちへの当てつけか?」
 「そうだろうな。あの女は、昔から俺たちを嫌ってたから」
 アートは拳を打ち鳴らし、北に向かって伸びる道の向こうに臨んだ。
 「ま、余所者には好き勝手させねえさ。この街は俺たちの手で守る。ゲイリーの仇は俺たちが討つ。ついでにミスター・マガウンのもな。さて、俺はそろそろ行くぜ」
 「健闘を祈ってる、アート」
 「お前らもな」
 そしてアート・コーポランドは歩き出した。
 ジョウドエリアは広い。
 ジェリコ、ニコライ、サムも準備を終え、それぞれを路地を歩き出した。


 2月5日午後11時41分。
 ジョウドエリアを東西に突っ切ったバウンス・ストリートを二人の男が歩いていく。一人は黒シャツで長身。もう一人は武骨な筋肉を纏った男だった。
 「最後だ。いいか、こいつで最後だぞ」
 「何度言うつもりだよ、ハリー。分かったって言ってんだろう?」
 ハリーとグレッグは歩きながらも言い合っていた。
 「元々、途方もない話だったんだ。俺たちのような平凡なニューヨーカーが、それも一人はストリートでケンカに明け暮れてるような奴が、なあ、グレッグ、お前のことだぜ。そんな奴らが全米を賑わせてる殺人事件の犯人なんざ捕まえるはずはなかったんだよ」
 ハリーはぼやきに、グレッグは苦笑して言った。
 「その割にはお前が一番はりきってたと思うが?」
 「それはお前があんまり不甲斐ないからさ。お前を頼ったシンシアがあまりに気の毒だ」
 少し間が空いた。
 「ああ。そいつは俺も思うぜ、彼女には悪いことをした。期待させちまったからな」
 グレッグの表情を変化を見て、ハリーは友人の肩を叩いた。
 「おいおい、そんなに真面目な顔するなよ。こう考えてみな、グレッグ。全てはジョークだ。ゲイリーが死んだのも、俺たちが巻き込まれたのも、全ては神のジョークだ。だから、どんなオチがついたとしても、笑って済ませればそれでいいんだ」
 グレッグは立ち止まり、ハリーの胸を軽く小突いた。顔は依然として真面目だった。
 「聞くがハリー、じゃあお前の奥さんが死んだのもジョークだと言うのか?」
 ハリーの顔からも笑いが消えた。
 「……神の御心は謎だな」
 間をおいて吐き出された友人の言葉に、グレッグは舌打ちして、再び歩き出した。ハリーもその後について歩いた。
 「冗談だ、グレッグ」
 「品の無ェ冗談だ」
 「ああ。そうだな、悪い。犯人に会えねえんで苛立ってんだろうよ、俺も」
 グレッグの問いは、ハリー・ノーランにとって重要だった。
 妻の死をどう受け入れるべきか。あるいは彼はそれが分からないためにここに立っているのだった。恋人を失い、救いを求めるシンシア・スミス。彼女は自分自身だった。逃げ場のない牢に閉じこめられ、悲観に暮れる日々。もしそこに救い主が現れるとすればどうか。悲しみを和らげている救い主が現れてくれるとすれば。そしてシンシア・スミスが救い主に求めることは、恋人の命を奪った憎たらしい殺人鬼を“ぶちのめすこと”なのだ。シンシアもハリーで、救い主もハリーだった。この事件は“謎の神の御心”を探る手懸かりになりそうだった。
 分かっている、グレッグ。こいつは重要な問いだ。
 「グレッグ」
 「うん?」
 「二手に分かれないか?」
 「何だ、気を悪くしたのか?俺とデートは出来ないってか?」
 「面白い話だが、そうじゃない。単純に、分かれたほうが見つける確率が高くなるだろうってことさ」
 「俺は構わんぜ。お前にその度胸さえあれば」
 ハリーは立ち止まり、シャツの袖をまくった。ちょうど道はそこで二手に分かれていた。
 「じゃ、決まりだ。先に犯人を捕まえて警察に突きだした奴が勝ちだな?」
 「賭け金はどうする?」
 「100ドル。いや、お前が勝ったら、今まで俺が貸してた酒代をチャラにしてやってもいい」
 「ハッ。こいつは大勝負(ビッグ・カジノ)だな。オーケイ、受けて立つぜ。」


 2月4日午後11時49分。
 「…しかし、本当にこれでいいのですか」
 ケヴィン・ビジーのデスクの前に若い警官が立っている。彼はゲイリー・カジノブについて報告し、またドンキホーテを中に入れた男だった。署の連中の中でも、特にビジーはこの男を気に入っていた。ビジーは頷き、デスクの上のタバコの箱を拾いながら立ち上がった。
 「ああ、こいつは言ってくれるな。もし何かあったら、適当に扱っといてくれ」
 「納得がいきません」
 「何がだい?ポール」
 「何故、その話を署のみんなに教えないのですか」
 「信じないだろうからさ」
 「いえ。信じます。そうでなくても、一応は話しておくべきです。事件に関する情報はその日の天気でもいいから教えろと言ったのはあなたじゃないですか」
 「そうだ。事件の手がかりになりそうなものは、なりそうにないものも、全力を尽くして捜索する、それが俺たちの仕事だ。それが犯人逮捕への一番の近道だ」
 「あなたは、事件解決の手柄が欲しいのではないですか?だから一人で行くのでは?」
 ケヴィン・ビジーはお気に入りのモスグリーンのコートを着込むと、微笑した。
 「可能性としてはあるいはそれもあるかもしれんな。だが、俺が考えたところじゃ、そうじゃない。実を言うとな、怖いからさ。ポール、俺は今日、一人で行くのが怖い。犯人にばったり出会うかもしれないんだからな。死ぬほど怖いだろうぜ。灯り一つ無い場所で殺人鬼と一対一だろ?想像するだけですくみ上がっちまう」
 「ならば尚更ではないですか。一人ではなく、警察署全体の力で犯人逮捕を」
 「俺の知るある男が、こういうことが好きなんだよ」
 ビジーは落ち着き払って言った。
 「その男は命を賭けた場所に行くことを何よりも好んだ。何故か分かるか?そこだったら、自分を全て解放できるからさ。死ぬほど怖い。死ぬほど痛い。死ぬほど辛い。だが彼はそこをスタートラインとして、自分自身を最大限に発揮する。限界を超えるんだよ。そいつを経験すると“死ぬほど”楽しくなる。そこで彼は限界を超える。そいつはな、至福だそうだ」
 「…似たような話をどこかで聞いたことがあります。あれはたしか、ライアン大統領の就任演説で…」
 「いや、違う。確かに大統領もそいつを経験してるそうだが、いまの話は別の男の話だ」
 ビジーは最後の支度に取りかかっていた。拳銃を取り出し、弾を装填した。
 「俺ももう歳だ。しかもこの町でだいぶ時間を無駄に使っちまった。俺は遂にそういう経験をすることがなかった。経験できるとすれば、たぶん、こいつが最後のチャンスなんだよ。ここで全て取り返してやりたい。こいつは俺の我が儘と思ってもらって構わない。だが、俺は一人で行く」
 「警部」
 「いいか?俺の話をよく聞きな。お前を呼んだのはこいつを伝えるためだ」
 ビジーが歩き始めた。ポールも付きそうように後をつける。
 「朝になっても俺が帰って来なかったらの話だ」
 「警部」
 「黙りな、ポール。もし俺が帰ってこないようなことがあれば、つまり殺されたらって話だが。お前らは俺無しで事件を解決に導かなくちゃならねえ」
 「……私は」
 「その時はだな、タイラー・クルゼイロって人を捜せ。ほら、この前話しに来たジイさんだよ。たぶん、力になってくれるはずさ。あと、マイク・ドースン。この名前も覚えておいて損はしない」
 ポールは何も答えなかった。本来ならば止めるべきだろうが。止めることができない。出口に差し掛かったところで、ケヴィン・ビジーは振り返って言った。
 「ここはもう大丈夫だ。俺が言うのもなんだが、十分活気づいた。何もしない田舎の警察署じゃなくなるだろう。何も心配することはない」
 そう言って、ビジーは通りの向こうへ消えていった。
 ポールは見えなくなるまで、その背中を見送った。


 2月5日11時56分。
 「いよいよだな」
 ドンキホーテは車から降りると、空を見上げて笑った。
 空はやはり曇っていた。事件以降、この町は曇天の日が長く続いた。月は久しく住人たちの前に姿を現しておらず、陰鬱な雰囲気が町全体に落ち込んでいた。
 KJは思わず鼻を摘んだ。“町のにおい”が彼女の鼻孔を刺激していた。元々トゥーマッチタウンは独特の悪臭を持つ町ではあったが、ジョウドエリアはひどく臭かった。汚物や吐瀉物のそれとは違う、独特の不快感。臭気がコンクリートの地面、廃ビルの壁にべったりと染みついている。その不快感は生きた心地をまるで感じさせなかった。どんな臭いにしろ、それがこの世のものが放っているかぎり、何らかの生命を感じさせるところがある。しかし、この町に漂う不気味な臭気は、まったくそれを感じさせない。
 KJは気づいた。“これは死体の臭いだ”“死臭が染みついてるんだ”いま彼女の側に(少なくとも“いま”は)死体はない。だが今までに多くの者がこの辺りで“死んだ”のだ。彼らが朽ちた体で放ったひどく気分を害する悪臭がこの辺りには染みついている。べったりと。ここは、このエリア全体は“放置された墓場”なのだ。その臭いに慣れるまで、時間がかかりそうだった。傍らに立つ老人にはこの“臭い”を気にしている様子が無かった。恐らくは何度かこういう場所を訪れたことがあるのだろう。彼は戦争の英雄だから。
 二人の目の前には柄の曲がった看板が立ててあった。立てられてだいぶ月日が経つものらしく、根本から頂点に渡って錆が虫のように侵食している。看板には『JORD』とあるべき場所に上から真っ赤なペンキで卑猥なスラングが殴り書きしてあった。その先には道が暗闇に向かって伸びていた。この道を歩き続けると地獄へ辿り着きそうだった。
 ドンキホーテは拳を打ちつけて、笑った。
 「じゃ、行くぜ」
 「待って」
 KJは突然跪き、ドンキホーテの背中に呼びかけた。
 「お祈りをさせて」
 そして十字を切り、彼女は両手を組み合わせた。
 

 日付が変わり、トゥーマッチタウン、ジョウドエリアに本当の夜が訪れた。

 


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