『アンノウン・キング』

48


 ハリー・ノーランは息を整えながら、相手を待った。
 白い息を体から吐き出すたびに、両肩が浮き沈みする。
 このわずかな攻防の間に、相当の体力を消費してしまったらしい。
 ――頼む。
 強者との対戦はひどく神経を使う。
 いま、どうして蹴ることができたかは分からない。
 だが少なくともそれは間違いなく『蹴れた』のであった。
 その動作に際して、いつもの自分が発揮できない、潜在的な神経を発揮できたのだ。
 普段なら扱えることのできない神経の活動によって、蹴ることはできたものの、ひどく体が動揺している。
 疲労している。震えている。哭いている。
 ――立つな。


 男は――時が沈んでいた。
 ロイ・ベーカリーの手には、牧草が握られていた。
 弱々しくも大地に立つ一本の茎を、力の限り握りしめている。
 彼の頬には土が付着していた。土に、顔を埋めている。
 やがてかすかな悪臭が彼の鼻孔を刺激した。
 ひどく、いやな臭い。くさい。
 彼は思わず、息を止めた。
 足音が近づいてくる。
 泥土を踏みながら、一定の歩幅で足音が、歩いてくる。
 ロイは顔をずらし、音の主を見定めようとした。
 しかしそれは半分は無理だった。
 音の主は、顔を持っていなかった。
 白いペンキを全身に浴びたようなヒトだった。
 (恐ろしいことに、それは紛れもなく『ヒト』だった!)
 灰色の作業服を上下着ている。そしてサングラス。
 装飾物の他は、映画で見た透明人間のように、真っ白の肌。
 毛もない。皺もない。ただ白い。
 そいつは、手に銃を持っていた。少し古い型だと思う。
 もう片方の手には鉄の棒が握られている。
 低い声がした。
 見ると、ヒトの白い顔が裂け、真っ赤な口が広がっている。
 やつが、何か言ったらしい。
 よく聞き取れなかったが、おそらく、やつはあの言葉を言ったんだ。
 それは言っちゃいけない言葉なんだ。
 習わなかったか?それは“言っちゃいけない言葉”なんだぞ。
 それは僕たち黒人を、ブジョクする言葉なんだぞ。

 ――ロイ・ベーカリー。

 俺は、何をしている。
 俺が最も“キライ”な感覚が、体を這っている。
 白人の振る棒が、俺の体を痛めつけ、――土。
 牛糞の臭い。サングラスをかけたカウボーイ。
 葉巻を吹かし、ガムをくちゃくちゃと噛みながら、
 俺たちを“地べたに這わせる”カウボーイ。
 俺たちが何をしたんだ?
 俺たちが、生まれる前に、何をしたっていうんだ?
 白人どもが我が物顔で俺たちの大地を歩いていく。
 列を組んで、手には黒い銃。鉄の棒。ナイフ。
 牛糞。土。地べた。―――俺は、ダウンしている。
 畜生、俺はこいつが“キライ”だ。
 奪うんだ。違う、取り返さなければ、ベーカリー!
 ロイ・ベーカリー!

 「オオオッッ!!」
 ハリー・ノーランは、目の前の光景に、恐怖した。
 戦いの組み立ては巧くいっている。
 しかし、いま、目の前で起こった光景はハリーにあまりいい想像をもたらさなかった。
 凄まじいほど早いスピードで、ロイ・ベーカリーはダウンから立ち上がった。
 ベスト・タイミングで得意の上段蹴りがロイの顎を直撃していたはずである。
 それにも関わらず、まるで今のはルール上無効のスリップダウンとでも主張するかのごとく、とんでもない速さで再び二本足で大地を蹴って立ち上がった。
 本来のニューヨークにおけるストリートファイトであれば、ハリーも相手のその素晴らしき不屈のガッツを心から称えたであろうが、咆吼とともに一瞬で立ち上がるロイの姿からは、ただ恐怖のイメージしかもたらさなかった。
 ハリー・ノーランの目の前には歯をガッチリと組み合わせ、両目を見開き、鬼面のチャンプ・ロイ・ベーカリーが立っている。
 モンスター・アームズは顎の辺りまで上げられ、片膝は半歩踏み出されている。
 先ほどとは異なり、完全な攻撃重視のスタイルに切り替えていた。
 ハリーが一瞬でも目を離そうものなら、即座に突進し、拳を振り回すことができるだろう。
 そしてその拳は一撃必殺の可能性を有している。
 「……カウボーイ」
 ロイの口から、ひどく落ち着いた声が響いた。
 冷や汗をかいていた。
 先ほどの咆吼から少しは落ち着いたのか、怒っている口調ではないが、
 不思議とその内に込められた怒りが伝わってくる。
 「まずは、礼を言おう。お前のおかげで、俺はもう一度、思い知ることができた」
 「何をだい」
 ハリーは怪腕から注意を逸らすことなく、問い返した。
 「ロイ、お前は何を見た?いまのダウンで一体何を見た?何がお前を立ち上がらせた?」
 「いま注目しているだろう、こいつさ。こいつが重要だ。この2頭の怪物」
 「拳」
 「そう、拳。何よりもまず、殴ることだ。殴り、殴り、殴り、ただ殴り、相手を平伏せさせること。そいつが重要だ。地位や名誉、あるいは自負もその後に付いてくるものだということを忘れていた。俺の拳。モンスター・アームズ。まずは倒さなくてはならないんだ。それは何よりも優先させてすべきことだ」
 ハリーは少し間をおき、問うた。
 「怒りか?怒りがお前を支えているのか?」
 ロイ・ベーカリーの口から次々と紡がれる言葉からは、露わではないとはいえ、明らかな怒気が含まれていることをハリーは感じている。
 「怒り……言葉にすると簡単なものだ」

 ロイは両拳をぐっと握りしめると、重心を前に倒した。
 あれは引き金だ、とハリーは思った。銃を撃つ直前の緊張感。
 あれは一つの弾丸、違う、ミサイルだ。スケールが違う。
 一気に、距離が縮まった。
 ハリーは恐怖した。ぞっと悪寒が走った。
 横に躱す暇などない。何より恐怖が彼の動きを僅かに鈍らせている。
 ――勝てるか?俺はこの男に勝てるのか?
 ロイは拳を振りかぶり、撃ち込んだ。
 渾身のストレート。ミサイルがハリーの腹にめり込もうとしている。
 あるいは心臓を抉り出せるかもしれない破壊力が、ハリーの腹に迫っている。
 モンスター・アームズが、迫っている。

 


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