REPTILE2


 「行け」
 中隊長の指示通り、フレディはその建造物の壁をロープを伝って滑り降りた。黒で統一されたスーツは完全に闇に溶け込んでいたため、その男の存在に気づく者は誰一人いなかった。その服装によるものだけではなかった。この男は生来、存在感を影のように消し去る能力があるらしかった。その能力から、「シャドウ」と仲間達から呼ばれ、部隊の任務にも重宝されていた。
 建物の正面広場では盛大なパーティーが行われていた。
 ケリー議員の誕生会と題されたそのパーティーは、飾り付けされた豪勢な食事を皆で囲み、ワインを片手に様々な人種の人間たちが楽しそうに会話をしている。こちらで誰かがスピーチをすれば、一斉に拍手が巻き起こり、あちらで誰かがジョークを飛ばせば、一同がどっと笑った。
 フレディは、気に入らなかった。

 生まれも育ちも悪いわけではなく、友人たちにも恵まれた彼の人生は、誘惑をもって一変した。
 青年期における悪の誘惑が彼を狂わせた。
 誘惑は現代に生きる貴族達(彼らはそれを陽気なブタと呼んだ)を否定した。資本主義の時代にあって生み出された、新出する富裕な民達を忌み嫌った。フレディは遂に感化された。いつしか彼は思想的に同調する、世間的にも有名なテロ組織へと加わっていた。その組織は陽気なブタどもの住処の破壊を次々に行った。壊した。ただひたすらに壊した。

 このパーティーも壊してやるつもりだった。

 フレディは建物の影に隠れて、準備を進める。組織から渡された爆弾を壁に取り付ける。反対側では別の同志が同じ作業を行っているはずだった。手慣れた手つきで素早く、しかし丁寧に段取りを進めていく。彼は連絡を受けると、最後に彼は赤いスイッチを押した。タイマーが作動する。残り5分。
 フレディは笑った。彼はいつも仕事を終えたとき、笑うのだった。
 あとは合流地点へと帰還するのみ。それで彼は安眠できるのだった。
 しかし、その日は違っていた。この日を境に、彼に安眠が訪れることはなくなってしまった。

 颯爽と塀を登り、闇に紛れてパーティーを一望する。聞いた話では、爆弾の規模は建造物だけでなくパーティーごとまとめて吹き飛ばす威力らしい。彼は悪魔のように笑むと、来場者数の哀れな姿を眺めて楽しんだ。煌びやかな宝石を身に纏い話に華を咲かせる貴婦人達(宝石のブタ)、不要な口髭を生やしていやらしく笑いながら夫人たちと挨拶を交わす紳士達(髭のブタ)たち、彼らはあと3分足らずで、死ぬ。

 その時、彼を言いようのない恐怖が襲った。彼はこれほどの恐怖を後にもそして先にも遂に味わうことはなかった。全身に悪寒が走り、歯がガタガタ震え始めた。
 (花、花だ。豚舎に花)
 怖ろしい光景だった。彼がこの先、本物の地獄を見たとしても、この光景の恐ろしさには敵うことはないだろう。確実に来る幸福の崩壊ほど怖ろしいものはなかった。いまに、いまに、目の前の幸福が奪われようとしていた。フレディは一瞬のうちに体内の水分をすべて抜き取られたような心地がした。まるで自分がただの肉の塊になったような感覚を覚えた。
 ブタたちに囲まれて、恋人レイラ・ハリスンの姿が見えた。
 ハリスンは美しい女性だった。20代も後半に差し掛かっていたが、その美しさは益々磨きをかけ、成長する蝶のようだった。
 黄色のドレスに身を纏い、周囲の人と談笑を楽しんでいる。
 突然、彼女との思い出がフレディの心のヴィジョンに映し出された。あの食事、あのクリスマス、あの夜、あの笑顔。
 (助けなくては)
 フレディは絶叫した。

 だが遅かった。
 フレディの目の前で彼女は死んだ。
 彼自身が仕掛けた爆弾が“パーティーごとまとめて”吹き飛ばした。
 
 彼は泣かなかった。泣けなかった、というほうが正しい。
 涙の代わりに、罪の意識が彼の全身を一杯に満たした。彼は真の意味で罪人となった。
 彷徨える罪人は一生届かぬ免罪を求めて、歩み始めた。

 その日、レプタイルは生まれた。

 償いだった。償いの意志だけが彼を闇へ闇へと誘(いざな)った。


 


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