REPTILE2

21


 月は、その路地を照らそうとはしなかった。すでに眠りについた建物に挟まれて、子蛇のような道が南に向かって伸びている。その道は近辺の大型道路の近代的な性格を持たず、かつて切り裂きジャックが暗躍していた19世紀末のロンドンを思わせる、暗黒的な雰囲気を持っていた。夜とはいえ、どこにも光が見当たらない。住民がばらまいたと思しきゴミや塵が辺りに散乱している。まだ整備がされていないか、そうでなければ、発展から見放された道路だった。

 まだゴライアス・ガーデンからはそう遠く離れていない。レプタイルは例の存在感を消した歩法で、マリンヴィルのいるホテルへ向かっていた。彼の来た方角からはサイレンが聞こえている。

 作戦は失敗した。

 フレディ・“レプタイル”・クラップはゴライアス・ゴードンの暗殺に失敗した。始末屋としてこの世界に身を投じて以来、はじめての失敗であった。レプタイルは人間離れした身体能力を持ってたが、ゴードンはそれ以上に恵まれた才能を持っていた。千年の努力もあの才能に敵わないだろう。生来の才能(ギフト)を神からの贈り物(ギフト)とするならば、償える罪人であるレプタイルに勝ち目はなかった。
 強い。
 ゴードンは、まだ高く、登りつめるだろう。

 だが、レプタイルは諦めていない。
 あの力の差を身をもって知りながらも、“二度目”を考えていた。それは償いであり、ゴードンが悪として君臨する限りは途絶えることのない意志であろう。自らが奪った恋人の命への深い懺悔を、彼は始末という行為を通して償いと定めている。それが救済への唯一の道だ、信じている。信じることは、知ることよりも常に上に立った。勝てないと知っていても、信じるほかない。理性や悟性で計り切れぬ意志を、彼なりの信仰が行動へと導いていた。

 
 彼の前に、一人の老人が現れた。
 キルマーではない。見慣れている顔。これから会おうとした顔。グレイヴィ・マリンヴィルがいつもの山高帽をかぶって立っていた。その目は穏やかで、優しい。
 「すまないな」
 レプタイルが、言った。
 「始末し損ねた」
 マリンヴィルは笑った。
 「お前が謝るとは珍しいこともあるもんだな」
 今回の任務失敗についての不満や憤怒は微塵も感じられなかった。
 いつも孤独なレプタイルに対して親しげに話しかけるあの老人のものであった。
 思えば、レプタイルに好意をもって話しかける人間は世界においてこの男しかいないだろう。
 「もう一度、機会を与えてくれ」
 レプタイルは言う。
 「報酬はいらない」
 マリンヴィルはまだ笑い続けた。
 「そいつは嬉しい申し出だ。けどな」
 老人は懐から、イタリア、ベレッタ社の拳銃を取り出した。
 「次はないんだ、レプタイル」
 笑いが消える。老人の顔がCIA諜報員のそれになった。
 時代を通して、恐怖も、不安も、乗り越えてきた老兵の顔。
 「もうないんだ」
 銃口が、レプタイルに向けられた。

 「撃つのか」
 レプタイルは立ち止まったまま、低い声で聞いた。
 「ああ」
 「失敗したからか」
 「いや」
 マリンヴィルは、少し間をおいて言った。
 「いずれにせよ、私はお前に銃を向けることになっていた」
 「だろうな」
 「知る者は全て始末する。情報の漏洩だけは避けねばならない」
 「始末か」
 「可笑しいか」
 「そうだな」
 そうは言うが、レプタイルは笑わなかった。
 冷たい瞳でマリンヴィルの目を見据えている。
 「では、撃てるのか」
 レプタイルが尋ねる。これはマリンヴィルにとって重要な問いだった。
 「撃てるさ」
 撃てない。
 レプタイルとの長い付き合いの中で、この仕事仲間が弾丸一発程度簡単にかわすことができることを知っている。
 実践的なブランクを差し引いても、マリンヴィルには撃てなかった。
 「お前とは、長い付き合いだったな」
 ふいにマリンヴィルは口にした。
 自分でも予期しなかった言葉だった。
 「6,7年前の麻薬王モリシーの件が、最初だったな」
 「ああ」
 「それ以来、お前は私の要望に完璧に応えてくれた」
 「目的が一致していたからな」
 「悪しき者の始末…償いのためだったか」
 「ああ」
 レプタイルの爪先が、ジッと地面を小さく鳴らした。
 「動くなよ」
 銃口がやや上に持ち上がり、レプタイルの眉間に定められる。
 「動くと撃つ」
 「どっちにしろ撃つのだろう」
 「その通りだが、できるだけ長生きしたくはないか」
 マリンヴィルの声の調子がおかしくなっていることに、レプタイルは気づいた。
 体も、どこか震えているように見える。
 「マリンヴィル」
 「黙れ、レプタイル」
 老人の表情が変に強ばった。今にも発砲しそうな気迫だった。
 「私はこれまで様々な仕事をこなしてきた。今回のような暗殺から失脚工作、拉致、事実の隠蔽、情報操作まで。お前がやっている仕事よりも遙かに陰鬱で汚いものばかりをだ」
 「知っている」
 「ではレプタイルよ。なぜ私を殺そうとはしない?私は悪だぞ。純然たる悪しき意志だ」
 レプタイルは一案して言った。
 「殺されたいのか?お前は」
 「…昨夜、ジョージ・ドースンが殺されたそうだ」
 「何が言いたい」
 「ただの情報屋だ。だが、私と関わったために殺された」
 しばらく沈黙し、マリンヴィルは悲しい目で言った。
 「お前はいつか私に言ったな。天国に行きたい、と」
 レプタイルは、無言である。
 「行けるさ、フレディ。お前は行ける」
 「よせ」
 マリンヴィルはトリガーに手をかけた。
 レプタイルよりもずっと速く、手慣れた動作でトリガーを引く。

 レプタイルは、血を見た。
 薔薇よりも、ワインよりも赤く、美しい鮮血。

 マリンヴィルはこめかみに銃口をあて、発砲した。
 弾が、老人の頭を一直線に通り抜けた。
 骨を砕き、脳を破って突き進んだ。
 すべて一瞬の出来事だった。
 悪しき闇に誘われ、穢れた運命に縛られていた男の魂は解き放たれた。

 もう彼は踊る必要もない。
 踊る曲も、唄う詩も、彼にはない。
 
 マリンヴィルは、死んだ。

 レプタイルの目の前でまた一人、友人が死んだ。
 友人。
 そう気づいたのは、マリンヴィルの死骸を見てからのことであった。
 遅すぎた。

 レプタイルは絶叫した。


 


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