『ANGEL』
12
| 午後6時。ヘブンズヒル繁華街。 日が沈み、その街は本来の顔を晒し始めていた。 あちこちにネオンの電飾が煌めき、ストリートを鮮やかに彩っていく。 ストリートの一角に門を構えるクラブ「Thousand」(サウザンド)。 その入り口にレプタイルは立っていた。 繁華街に構えるそのほとんどの店は“表の客”に対してのものだ。 しかしその中に極少数ながら“裏の客”用の店も点在する。 表向きは普通の店舗ながら、裏社会の業務を成す。 「Thousand」もその系統の店の1つであった。 グレイヴィ・マリンヴィルがあらかじめ調べ上げていたその酒場。 レプタイルはロミの行方を知る手がかりを、マリンヴィルの遺産に賭けた。 店の中は意外に広かった。 レトロアメリカンな建築が成された店内で、人々が派手なロックをBGMに 食事や酒を酌み交わす。若者や仕事を終えたビジネスマンが大半を占めている。 酒場としての時間には少々早かったが、すでに店内は十分賑わっていた。 人々は、1人店内に入ってきた黒い影には見向きもしなかった。 否、皆自分達の食事や話に夢中で、新しい来客など気にも止めないだろう。 しかし不幸にしてその男の進路に立ってしまった者だけがその存在に気づき、 気圧され、背筋の震えを感じつつ道を譲った。 「何にしましょう?」 30代とみえる白人のバーテンがカウンターから話しかけてきた。 気さくな口調ながら、その目は得体の知れない客を値踏みしていた。 自分が『表』の客か、『裏』の客か探っているのだろうとレプタイルは思った。 「‥‥“千の質問をしたい”」 レプタイルは『裏用』の合言葉を言った。 「恐れ入りますが、常連のご紹介のない方はご遠慮願っております」 バーテンは商業スマイルで拒絶した。 「常連の知り合いはない。だが、“オーナーに千の質問をしたい”」 「申し訳ありませんが‥‥」 「“センヒメに千の質問をしたい”」 「‥‥!」 バーテンの眉がわずかに動いた。 レプタイルが『ただの一見』ではないと悟ったようだった。 「‥‥まだ時間が早い。後にしてくれ」 バーテンは小声で、しかしレプタイルにはしっかりと聞こえる声で拒絶した。 「急いでいる」 「駄目だ。それでなくともオーナーはあまり人と会いたがらないんだ」 「多分俺には会いたがる」 バーテンは苦笑した。 「随分と自信家だな‥‥あんた何者だ?」 レプタイルは名を告げた。 「‥‥‥‥。」 バーテンは無言でカウンター奥の扉の中へと消えていった。 「失礼しました。オーナーがお会いになるそうです‥‥」 戻ってきたバーテンが慇懃な姿勢で言った。 5分後。レプタイルは日本庭園にいた。 年季物の松の木、鯉が泳ぐ池、石灯籠と獅子おどしを臨む屋敷の縁側に レプタイルは立っていた。 クラブ「Thousand」のカウンター奥の扉を跨いだ裏側は、180度別世界であった。 扉を越え、鉄筋の造りから和風の木造建築に変わったかと思うと辿り着いたのがこの庭園。 ガイア共和国首都ヘブンズヒルの中で、ここだけが『日本』。 しかしわずかに耳に届く繁華街の喧騒が、ここが『ヘブンズヒル』である事を 確かに物語っていた。 バーテンはすでに姿を消していた。その場にいたのはレプタイルと、1人の老婆のみ。 レプタイルは目の前のその老婆を見た。 縁側に敷かれた分厚い座布団の上に、枯れ枝のようにやせた小さな体を 鎮座させている。 年の頃は80、いや90以上は行っているだろうか。 この庭園に似つかわしく、薄紫色の着物に身を包んでいる。 すっかり白くなった髪は、後ろで丸くまとめられていた。 老婆は突然の来客を気にするふうでもなく、膝の上に広げた絹布にそっと手を置いていた。 「ようきたねぇ」 その口が開かれた。 「わちが、千姫(せんひめ)ですわぁ」 しわがれているが、しっかりとした声だった。 |
| 第13話に進む |
| 第11話に戻る |
| 図書館に戻る |