『ANGEL』
21
| レプタイルは右手に力を込めた。 冷たいコンクリートの感触が命綱だった。 額を生暖かい感触が伝う。流血も夥しかった。 宙吊り状態。滑らかな大時計盤のどこにも足をかける場所はない。 左手はロミで塞がっている。 とっさにへりをつかんだ右手が唯一の生命線。 その右手のすぐそばで。“奴”が笑っていた。 「フハ‥‥アンタもうボロボロねぇン‥‥」 翻る白いコートに邪悪な笑み。 カーマが見下ろしていた。 崖っぷちにしがみつき、片手には子供も抱え、絶対的不利な状況のレプタイルを。 「フハ‥‥なんというかね、これはもう‥‥」 その顔がみるみる破顔した。 「愉ッ快でたまらないワ!フフフフファハハハハハ!!!」 腹を抱え目を剥き舌を突き出し、この上ない喜声を挙げた。 「何よこの圧倒的有利な状況!?もうこれで負けたらバカよ!?」 へりにしがみついているレプタイルの手を靴先で踏みつけた。 「!‥‥」 「ホホ、本当ならこの状態で小一時間ほど人の道について説教した後に 嬲り殺しにしたい今日この頃なんだけど、ワタシもう油断しないワ!」 カーマの右手が『カチャリ』と外れた。 「プラズマ砲、もう一発撃って一気に終わらせてあげるワ!」 砲身を下のレプタイルに向けた。砲筒に青白い光が凝縮され始める。 「!!‥‥」 「フホホ、“天使の神託のままに”‥‥‥」 エネルギーが充填され、熱風が噴き出した。 「地獄へ落ちろレプタイルッッ!!!」 レプタイルは右手から力を抜いた。 そしてロミと共に落下した。 「!?」 自ら落下の道を選んだレプタイルに、カーマは虚を突かれた。 その「虚」こそがレプタイルの狙い目だった。 「!?」 カーマは予測していなかった。 レプタイルが「壁を駆け上ってくる」事など。 距離にして約10m。その間合いを一瞬で詰めてこようとは予測していなかった。 垂直の壁を、地の上を移動するのと遜色なく駆けるレプタイルに、カーマは思い出した。 彼が『爬虫類』と呼ばれている事を。 ロミを抱えたまま、レプタイルは駆け上がる。 ロミはただしがみついていた。 もはや彼女を取り巻く状況は、彼女の理解の域を越えていた。 ただレプタイルを信じ、その体につかまっていた。 そして黒き爬虫類は、カーマの体すらも駆け上がる。 「!!?」 カーマの膝、肩に足をかけ、跳び上がる。 「〜〜〜!」 カーマは背筋が凍るような寒さを感じた。 自分の体を駆け上っていった爬虫類は今、目の前上空にいる。 見てはいけない。だが。 見ざるを得ない。 カーマは見上げた。 ロミを脇に抱えたまま、今まさに蹴りを繰り出さんとする爬虫類を。 回転するレプタイルの体躯。翻る黒いコート。弧円の軌道をえがく漆黒の脚。 カーマにはそのどれもがスローモーションに感じた。 しかしカーマは動けなかった。爬虫類に狙われた獲物のごとく。 『恐怖』に縛られていた。 今。この瞬間は。レプタイルが支配していた。 渾身の飛び廻し蹴りがカーマの頭蓋を狩る。 今度はカーマが梁の上から時計塔内の宙空に投げ出された。 「うおおえあぁあッ!?」 カーマの手足が宙を泳ぐ。 ヤバイ。いくら強化手術を施した体といえど30mもの距離を落下して地面に 叩きつけられればタダではすまない。しかも落下地点では鋼鉄の歯車が回転している。 「ギャース死んでたまるかワタシの人生まだまだこれからヨォー!!」 カーマは右手の砲口を下へ向けた。 プラズマ砲を逆噴射させ、その勢いで舞い戻るつもりだった。 「いッ!?」 しかしそれは叶わなかった。 カーマの頭上を黒い影が覆った。 カーマを追い、レプタイルもまた宙空に身を投げ出していた。 そして再び蹴りを振り下ろさんとしていた。 「ア、アンタそこまでせんでも‥‥!」 「“その場のノリ”ってやつだ」 鋭利な廻し蹴り一閃。 「ぐぎゃぁーはッッッ!!?」 加速のついたカーマの肢体は一直線に巨大な歯車に激突した。 全身が痺れる。しかし。 「ま‥‥まだワタシ生きてるワ‥‥日頃の心がけが良かったみたいね‥‥」 足元で何かが砕ける音がした。 「え‥‥」 カーマの顔から血の気が引いた。すでに膝から下が回転する歯車の中に巻き込まれていた。 「ひ、あ、え‥‥‥‥」 時計塔内に断末魔の悲鳴がこだました。 「見るな。聞くな」 レプタイルは梁の上で震えるロミを抱き寄せ、下で起こっている惨劇を見せないようにした。 鼓膜を引き裂かんばかりの絶叫は、やがて発した本人と共に歯車の中へと消えていった。 “始末”は完了した。 そこには勝利の栄光や喜びなど存在しない。 ただ、血と憎悪の跡が残るのみ。 それが始末屋の戦いだった。 |
| 第22話に進む |
| 第20話に戻る |
| 図書館に戻る |