『REPTILE』


 ニューヨークに佇む酒場『アシュリー』。レンガ造りの古風なその酒場には、時間も時間ながら、すでに客足も寂しく、わずか四、五名の男女が静かな宴を交わすのみであった。
 そのうちの一人、黒い帽子の男が、カウンターに腰掛けていた。風格を漂わせる白髪に、太い鼻。かなり年季を持った人物であろう。老いてなおガッチリとした右腕にアスピリンを数錠乗せると、そのまま喉に放り込んだ。苦味が食道を刺激し、顔は苦渋に歪む。
 「グレイヴィ。やはり飲(や)るべきじゃなかったのでは?」
 正面でグラスを磨くバーテンダーが、微笑みながら語りかけた。
 グレイヴィと呼ばれた黒帽子の男はホッと口を丸くし、
 「私の唯一の楽しみだよ」とだけ、いった。
 時刻はすでに2時をまわっていた。このころになると、客はおろか、店外から聞こえる車の走行音すら聞こえない。夜を生きる者のみが、その妖しげな静寂を知る。音といえば、眠れぬ職人の囁き声、杯を交わす音、氷の溶ける音、くらいなものであった。
 「待ち人ですか?」
 バーテンが再びグレイヴィに問いかけた。
 「ああ。重要人物だ。まあ、そうでなければこんな夜遅くに来ないがね」
 「始末屋、ですか」
 「うむ」
 バーテンは落ち着いた様子で、作業をつづけた。グレイヴィもまた驚いた様子もない。この時間帯、この酒場で、上のような会話は常套的なものであった。始末屋と依頼人が仕事内容を交渉する。その場所として、人目を逃れるように造られた裏路地のレンガ酒場ほど格好なものはない。
 「それも、その中でも超A級。レプタイルだ」
 グレイヴィはいうと、苦笑した。
 「あの野郎め。とっくに約束の時間を過ぎてやがる」
 バーテンはホッと息をつき、グレイヴィの前に冷や水を一杯置いた。グレイヴィはにやにやしながら、コップ一杯の水を飲み干し、カウンターに両肘をつく。
 「遅い」

 ちょうどそのとき、扉が開いた。
 客の関心を一切惹かず、影のように店内に現れた男。そう、まさに影であった。髪、コート、サングラス、全てが黒い、影のような男。肩まで伸ばした髪が吹き込む風に靡く。男は真っ直ぐにカウンターへ歩を進めた。歩くさいにも、影を思わせる。音をたてない。

 フレディ・“レプタイル”・クラップは無音のまま、一歩一歩確実にグレイヴィに近づいていく。
 しかしグレイヴィは気づいたようすで、腕組みをし、口を開いた。
 「名声を得るほど傲慢になるものだな、フレディ。1時間の遅刻だ」
 “レプタイル”は表情一つ変えず、グレイヴィの右隣の丸椅子に腰掛けた。暗い影がカウンターに伸びた。バーテンは怖気づき、そそくさと酒蔵へと入っていってしまった。
 「謝る気はゼロか。ま、期待しちゃいないがね」
 グレイヴィは苦笑する。
 「まずは、小マッケラン、ルーカス両名の始末、ご苦労だった」
 レプタイルは無言である。ただ真っ直ぐにカウンターの木目を見据えていた。
 「“政府(ビッグブラザー)”としても、今回の件は米麻薬犯罪の心臓を突いたものと捉えている。君の働きは表彰ものだ。国家の誇りだよ」
 グレイヴィはつづける。
 「公にできないのが残念だ」

 できるはずがなかった。犯罪撲滅のため活動とはいえ、二人死なせている。公表したとして、殺人者としての印象のほうが強烈であろう。
 “政府”はしばしば、彼ら始末屋を利用する。特に諜報といった非公開の官僚にとっては良き同僚であった。殺し屋よりも低コストで、敵対組織の要人を暗殺することができる。マフィアよりも米政府のほうが、利用率は高い。
 同時に始末屋たちも、高額で雇う政府を気に入っていた。

 一人、客が帰った。店内はますます静けさを重ねる。
 グレイヴィは他の客には聞こえない程度の音量で話を連ねる。
 「さて今回の幹部二名始末で、麻薬組織フィドルの狼狽ぶりは明らかだ。次の一手で壊滅もありえる」
 「…次で最後か」
 レプタイルが口を開いた。鉛のように重く、低い声がグレイヴィの耳に聞こえる。
 「うむ。諜報の話によれば、残す幹部は元締めである大マッケランと、四名の若頭しかいない。四名の若頭に組織を統べる力はないそうだ。有能な後継のない組織の末路は、ただ壊滅のみ。これは君のよく知るところだろう。先の二件も、その布石だったはずだ」
 「………次の標的は、ダグレイ・マッケラン」
 「そういうことになる」
 グレイヴィは顎を鳴らした。
 「その男を消すことで、アメリカの麻薬社会に一応の区切りをつけることができるだろうな。未成年の中毒者の割合も一気に減るかもしれん」
 レプタイルはしばし沈黙し、頷いた。
 「請け負う。始末は頃合いを見るが、三日のうちに完了する」
 「そんなに早くか」
 グレイヴィは驚嘆した。いやしかし、先の二件も依頼後わずか四日間での出来事であった。信頼に足る言葉だ。
 レプタイルは立ち上がり、店を後にしようとした。それをグレイヴィがはっとして引き止める。
 「待て待て。まだ話は終わりではない!」
 グレイヴィはレプタイルの腕を引き、小声で囁いた。
 「ロンドンからイギリス産の始末屋集団が、近々ニューヨーク入りをするらしい。およそ英国紳士らしからぬ、血肉を好む凶暴な連中だ。こちらとしても手は打っておくが、なるべく用心したまえ」
 レプタイルは反応を見せず、無言無音のまま、店外へ出た。
 グレイヴィは舌打ちし、再びカウンターを正面に座りなおす。

 外は月夜。
 酒場『アシュリー』は次々と人を吐き出していく。

 政府直属の諜報員グレイヴィ・マリンヴィルは懐から葉巻を取り出し、咥えた。火を点された先端が、チリチリと燃える。客はまた一人消え、そうするうちに誰もいなくなった。ぼんやりとした灯りが、グレイヴィの頬を照らす。夜に生きる者の、しばしの空白。
 グレイヴィは天井を見上げ、煙を吐き出し、低く呟く。
 「狂おしい時に会い、私は時勢に従い、狂おしいことをする」
 彼を慰めるゲーテの句は、いつもに増して寂しく、店内に聞こえた。


4に続く
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