翼の拳
〜Fists of Wings〜


第18話

作者 茜丸


まるで白昼夢でもみたかのような不思議な気分だった。


なのはとの闘いに邪魔が入り、体制を立て直す為に一旦退いた炎虎。
胸中には様々な思いが錯綜する。
不本意な状況とはいえ、翼の拳の少女との再度の立ち合い…。
今になって現れた自分の翼を奪った少女…。

そして…

まるで白昼夢でもみたかのような不思議な気分だった。

人気のない路地の向こうから一人の少女が歩いてきた。
ただ、それだけのことだった。
ただそれだけのことで、その瞬間までの炎虎の全ての思考が停止し、
全ての意識が、その少女に向けられた。

真っ赤に光る大きな瞳が印象的な、ショートカットの銀髪の少女だった。
炎虎にとっては会った事もない少女だった。
だが炎虎はその少女を知っているような感じがした。
ずっと昔に見たことのあるような錯覚を覚えた。
いや…錯覚というよりは…

(俺は確かに…この娘を「知っている」?)

その「知らない筈の少女」を、
自分が「知っている」と確信するのは非常に不思議な気分だった。
だからといって自らに「それが誰か」と問うても答えは見つからない。

いや…正確には違う。

にわかには認めがたい感覚を感じている。
「この少女はひょっとしたら…」と考えている。
それは普通では絶対に「ありえないこと」を考えている。
むしろ普通でなくても「ありえないこと」を考えている。

「確かめたい」という衝動が走った。
むしろ、確かめずにはいられなかった。
理性ではなく本能が「確かめる事」を決めていた。

少女と炎虎の距離が近づいてくる。
炎虎はただ歩いて近づいていく、
これほど高揚しているのに自分の鼓動が静かな事に驚いていた。
自分から殺気が放たれないことにも驚いていた。
この瞬間に自分から全ての邪念が失せている事に驚いていた。

そして「その瞬間」が訪れる。

彼女と彼がすれ違おうとした「その瞬間」…

まさに少女が炎虎の横を通り過ぎようとした瞬間…「その瞬間」…

瞬間…「飛んだ」…

少女は凄まじい勢いで吹き飛び、道路の反対側の壁に激突した。

「あぶろぼぁ!」

少女の叩きつけられた壁は粉々に砕け、少女は奇妙な叫び声を上げた。

(かわした…!?)

動作直前まで完全に気を殺し、瞬間的に放った不意の一撃であった。
本来なら戦闘意思のない者にそんな攻撃を仕掛けるなどする筈はない。
まして相手は少女…炎虎の気質からいってもありえない行動だった。

だが…彼の意思に反して細胞が動いた。
自分自身にも驚くほどの「静かさ」から、一瞬にして「動」に変化した、
「完全無欠の不意打ち」を細胞が放ったのだ。

目の前にいる「それ」が、彼の想像通りのものであるならば…。

「その瞬間」には不審な点がまだある。
打撃格闘技の達人である炎虎の放った打撃は、
相手の体内に衝撃を炸裂させるタイプのものである。
あのように派手に「飛ぶ筈がない」のだ。

そう、つまり少女は瞬間的に放たれた察知できる筈もない一撃を、
「一瞬のうちに見切り、反射神経だけでかわした」のである。

次に不審なのは壁が粉々になっている点、
少女がかわしたのだとすると、
彼女は自らの「体当たり」でコンクリートの壁を破壊した事になる。
しかも、炎虎の打撃を「かわした」時に、
誤って「ぶつかってしまった」という、
破壊意思のない「衝突」によってである。

つまり少女は、
一瞬の内に「コンクリートの壁を破壊するまでのスピード」に達するという
「異常な加速」を行ったのである。

このたったの一瞬で炎虎が悟った事…

この少女は人間の領域を超えた反射神経を持っている
この少女は人間の領域を超えた移動速度を持っている
この少女は人間の領域を超えた肉体強度を持っている
この少女は人間の領域を超えた超破壊力を持っている
この少女は…

「天…」

炎虎の口から不意にその言葉が漏れた。
そう…先刻に感じた違和感は紛れもない…
遠い昔に見失った筈のものをその少女に感じたのだ。

無意識に近づいていた。

粉々に砕けた壁に…そこにいる少女に向かって…

近づいてどうしようというのか…
「あの一撃」をかわす事の出来る実力を持っている少女である。
真っ向からやりあった場合、打撃を当てる事だって出来るのだろうか?
ましてや果たしてクリーンヒットしても効くのだろうか?
逆に自分は、この少女の攻撃を受けられるのだろうか?
この少女と戦って勝ち目などあるのだろうか?
そうであるならば何故、この足は少女に近づいている?

頭では様々な否定的要素が巡っていたが、
それでも足は進む事をやめなかった。
「そこ」に近づく事をやめられなかった。

しかし…

(いない!?)

いつの間に消えたのかわからない。
その瓦礫の中に居るはずの少女の姿は既に何処にもなかった。

まるで白昼夢でもみたかのような不思議な気分だった。

今思えば、あれほど強烈なインパクトを持っていた少女の顔すら、
何故かハッキリと思い出せない。

それでも粉々になったコンクリートの壁は、
今の体験が幻ではなかった事を告げていた。

不思議な気分だった。そして…

何かとても素晴らしいものから手が離れたような気がして…

ただ悲しかった。わけもわからず涙が溢れていた。
涙が流れるわけさえわからないのが、更に悲しく思えた。

しばらくすれば「その瞬間」に感じた自分の鼓動も忘れ、
再び様々な思考が動き出す。
そして「その瞬間」の何もかもを忘れそうな気がする。
…それが何より悲しく思えた。

瓦礫の散乱した足下の地面に刻まれた「Z」の文字に、
炎虎は気がつく事はなかった。



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