翼の拳
〜Fists of Wings〜
第20話
作者 ナニコロ
震えてください。
これで良かったと言える。
もし命を投げ出すことがあの人を守る唯一の方法なら、遠く薄れる意識の中、私は笑ってみせる。
この安らぎは、もう奪えない。
どんな運命であっても。
いつからこんなふうに強く……出会った日から。
いつからこんな深く……いいえ生まれる前から。
震えてください。
一瞬でいい、抱き寄せて。
父の無い子が人に打たれて愛を知る、そんな目で。
震えてください。
一粒の夢。
私に触れて揺れたなら、それだけでいい。
私の恋の痛みは癒されるでしょう。
震えてください。
星の数ほどの出会いがあり、星の数ほどの別れがある。
彼女は暗黒街の通りで、倒れていた。複数の男たちが、彼女を囲い、内1人は、彼女の頭に銃を突きつけている。
表通りならば、頭に突きつける銃は脅し程度であっただろう。
だが、ここは法さえも通さぬ暗黒街。脅しではない。
彼女はミスを犯した。
彼女は普段から隙も無く、頭の回転も良く、実力もある。そんな彼女らしかぬ珍しいミスだった。
だが、その失敗は、彼女を命の危険にさらした。
何故なら、彼女……龍 遊夢……はマフィアの一員であり、若手の犯罪者の中では急成長株であったため、内外に敵も多かった。
ミスは命取りだった。
「前々から気に食わなかった」
家畜の豚を見る目で男は彼女……龍に銃を突きつけていた。
勝利に酔いしれ、敗者を明らかに嘲っている。
男は引き金に力を込めて……そして、『それは』突然現れた。
路地裏が揺れたと感じた瞬間、銃を持った男が吹き飛んだ。
「楽しそうなことをしているな……。俺も混ぜてもらおう」
男が立っていた。掌打を放った姿勢から、隙無く構えを戻し、不敵に笑う。
誰しも予想しない展開だった。まったく関係無い者の乱入など。
龍は男に視線を移した。
長い黒髪に無精髭を道連れにした顔は男臭さを醸し出し、強い意志という名の光沢は瞳を宝石のように輝かせ、溢れんばかりの覇気はその身体をなんと雄々しくみせたことか。
乱入者に対して……マフィアの一員と言っても、男たちはチンピラ同然であったのだろう……最初に飛び出したのは怒声であった。
もし、彼らが発したのが、怒りのこもった尋問でなく銃弾であったらば、まだ勝機はあった。
乱入した男にとってその瞬間など、好機以外の何者でもない。
激震と共に、手前の男は顎に拳打を喰らい昏倒する。
龍にとっても、この好機は逃さなかった。
倒れた姿勢から、横に飛び退くと、ガラス製のナイフを取り出す。
この場の生存者が、男女2名になるのに、たった数分しか要さなかった。
「ふふふ……ありがとう。おかげで助かったヨ」
龍は乱入した男に向かって声をかけた。
「別に」
男は素っ気無い。
「俺の力が、銃さえも凌駕しているか、試したかっただけだ」
「不思議なことを言うネ。それだけの目的で、マフィアに喧嘩売ったノ?」
「……お前にとっては、些細だろう……だが!」
男の言葉には、熱い息吹が篭る。龍の顔を正面から見据えた。
「俺の望みは天! マフィアなど関係無い! 強さを求め、はばたくのみ!」
龍の身体に、理解出来ない『何』かが走り抜けた。どんな窮地でも冷静を保った鼓動が今や早鐘のごとく鳴り響き、心の臓は灼熱のように熱く猛り狂っている。男の純粋で力強い視線を直視出来ず、龍は思わず視線を逸らした。
男はそれを反論できないものと判断し、無言で背を向けた。
「待って」
「何だ」
歩き去ろうとする男に、龍は言葉をかけた。
「せめて、お礼くらいさせて欲しいワ」
「特に必要無い」
「夕食くらはおごるヨ」
男が、ギシリと止まる。ゆっくりと身体ごと振り向き、龍を見据える。
「頂こう」
この瞬間からだった。
たった一度の出会いにも関わらず、龍の心に1人の男が巣食う。
男の名前は……炎虎。
星ほどの出会い、星ほどの別れ……そして再開。
龍がマフィアの幹部クラスになったころ、男……炎虎と再会した。
炎虎は路地裏で酒臭く埋もれていた。伸ばし放題の髪と髭は哀れさを醸し出し、絶望を宿した瞳は死んだ魚のように光を消し、覇気を失った身体はその大きさよりも小さく見せた。
龍は痛みを感じた。心の臓が何かに鷲掴みされた。
「……久しぶりネ」
「……」
魂の無い瞳は、静かに龍に向けられた。
「……誰だ?」
「以前、あなたに助けられたものヨ」
「……悪いが……知らん」
「……そう」
−ズキン− 痛みが増した。
「でも、私は覚えているヨ。
あの時、殺されかかった私を、あなたは颯爽と現れて助けてくれたネ」
「……そんなこともあったかもな……」
「あなたに恩返しがしたい」
「……無駄なことはやめておけ。……意味の無い……ことだ」
痛みが激しくなった。無意識の内に胸を抑える。
「じゃあ、私に従えば、好きなだけお酒が飲める。これでドウ?」
「……いいだろう……」
涙が溢れなかったのは、奇跡に近かった。
星ほどの出会いと別れ、星ほどの再開と時の流れ……そして今。
現在、龍はマフィアのNO.2であった。
トップはアモン・リー。様々な犯罪組織を巧みに利用し、手中に収めている野望多き男。
そのアモンの部屋に龍は訪れた。
「ようこそ、ミズ・ロン。炎虎の処置に関してだね」
「その通りヨ」
アモンは薄く笑った。
炎虎は龍の懐刀。それは誰しも知るところ。
世界中の裏組織を納めるアモンにとって、この犯罪組織は予想以上に難敵であった。トップにいながら、完全に乗っ取れていなかったのだ。それはこの二人……龍と炎虎がいたからである。
強さと頭脳を併せ持つ龍。、戦慄さえ与える戦闘力で、龍を守る炎虎。
だが、不思議なことに、龍は懐刀であるはずの炎虎を何故かマフィアの賭け試合に参加させていた。
そして……小さな少女に敗北。
アモンにとって、幸運が転がり込んできたとしか思えない状態である。
「ミズ・ロン。私としても、試合の結果は非常に残念なものだ。
本来、炎虎は賭けを狂わせた罰として殺されても文句が言えない立場でね……これでも処置は精一杯軽くしたつもりだよ」
アモンは薄い笑みを浮かべたまま、話を続ける。
まるで、要らない恩を売られているようで、苛立たしいが……それはもちろん顔に出さない。
「しかし……炎虎のこと。また情けが走って負けるかもしれませんし」
「『また』? 炎虎は例え子供でも、戦うものには容赦しないヨ」
「さてどうでしょうねぇ。彼もやはり男。いらない下心でも出して、あわよくば、とか思ったのかもしれませんねぇ……あっはっは」
下卑た取るに足らない挑発である。普段なら聞き流せるのに、何故か今回は心底腹立たしい。
「さて、ミズ・ロン。私が君を呼んだ理由はね、炎虎を組織に連れてきた責任として、君にも処罰がある。それを伝えようと思ってね」
龍は目を少しだけ、細めた。
「貴女の処罰は、万が一炎虎があの少女に負けた場合……」
「私が代わりにあの少女を殺せ、ということネ」
「そうです。だけどそれだけじゃない。
もし、炎虎が負けた場合……」
アモンは言葉を一旦切ると、もったいぶるように声を止めた。
そして、楽しそうに口を開く。
「炎虎も貴女に殺してもらいたいのです」
龍は、一瞬だけ瞼を閉じた。
そして瞳が再び光を発した時……それはマフィアの殺し屋のものだった。
アモンは、眼光にあたっただけで、氷点下の部屋にいる気分になった。
「それは……誰の決めた処罰」
「『私』です」
アモンの口調は変らない。だが、口元はすでに笑っていない。
共に、武器を得意とする。
この部屋に入ってから、龍は密かに必殺の位置にいた。必殺……『必ず殺せる』位置に。
同時にアモンにとっても、必殺の位置である。
動けば、両者ともただではすまない。
確実にどちらかが死ぬ。
アモンも龍も瞬きを一切せずに、見詰め合っている。
冷たい、心など宿さない凍てついた瞳が絡み合う。
そして……最初に動いたのは、龍の方だった。
ただ、くるりと背を向けただけだった。
「分かったわ」
その後、龍は一切言葉を発することなく部屋を出て行った。
それを見つめてから、アモンを自分の手のひらに視線を移した。
冷たい汗で……手は悴んでいた。
星ほどの出会い、星ほどの別れ……そして星ほどの恋。
女は1人の男を愛した。天を夢見た男を愛した。
男が落ちぶれたことで、女は初めて男を自分の物に出来た。
だが、女が愛したのは『天を夢見た男』。
姿こと同じでも、愛した男ではない。
男が落ちぶれ続ければ、男は女の元に永遠にいるだろう。
男が再び天を目差せば、男は女の元を去っていくだろう。
永遠にその男は女の物にならないだろう。
それを知りながら、女は『天を夢見る』男を愛した。
星ほどの出会い、星ほどの別れ、星ほどの愛。
男は少女と出会い、変った。
それは望むべきことか……悲しみべきか……女でさえ、分からなかった。
震えてください。
これで良かったと言える。
もし命を投げ出すことがあの人を守る唯一の方法なら、遠く薄れる意識の中、私は笑ってみせる。
この安らぎは、もう奪えない。
どんな運命であっても。
いつからこんなふうに強く……出会った日から。
いつからこんな深く……いいえ生まれる前から。
震えてください。
一瞬でいい、抱き寄せて。
父の無い子が人に打たれて愛を知る、そんな目で。
震えてください。
一粒の夢。
私に触れて揺れたなら、それだけでいい。
私の恋の痛みは癒されるでしょう。
震えてください。
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