翼の拳
〜Fists of Wings〜


第24話

作者 ナニコロ

「私の過去か……」
 夏香は、ぼんやりと思いを巡らした。
 覚えている限りの過去のことを。
 そして……消えた過去のことを。

 彼女はある秘密結社の最高幹部の1人だった。
 その頃の名前は“疾風怒濤の”葉月という。
 役目は戦闘員格闘技教官。……そして、要人の暗殺。
 戦闘員たちに格闘技を教え、世の格闘家の標準を上回る戦闘技能者を生み出し、時として戦闘に自ら起つ。
 物心ついた時から彼女はそうだった。いや……ある日、ふと気付いた時には既に、そういった『存在』だったのだ。
 そして、彼女は必死で記憶を辿り……過去の記憶が『まったく無い』ことに気付いたのである。
 それほど深く追求しようとする気持ちにはならなかった。
 だが、ある日を境に、自分の存在に疑問を抱き始める。
 彼女は要人の『暗殺』から帰ってきた時のこと。
 結社の本拠地の廊下にて、彼女は軽く溜息を吐くと壁に寄りかかった。
「なんだかな……」
 肉体的にも精神的にも疲れていない。だが暗殺後の気分はいつだって、陰鬱な気分になる。
 再び溜息を吐くと、廊下の奥に視線を移す。
 1人の男性がこちらに向かって歩いてきた。
「葉月か……」
(うひ〜、やな奴にあっちゃった)
 彼女は別な意味で陰鬱な気分になった。
 男性の年齢は16歳ほど。黒いズボンに黒革靴、それと対照的に真っ白なシャツを着こなし、細いネクタイで絞められている。真ん中にくびれていない半円形のミラーグラスのせいで、素顔は判らない。ただ、口元に冷笑が張り付いるのが見える。
 短く切った銀髪の一箇所だけ薄緑色に染められており、その部分の下、額の左目の上辺りに、唐突に「鍵穴」が開いている。
 そう……刺青やペイントの類ではなく、本物の穴の開いた鍵穴が存在しているのだ。
 男性の名前は、“妖術師”アルシャンク。
「また殺さずに、戦闘不能にしただけだそうだな」
「悪い?」
 彼女は、アルシャンクに視線を向ける。
 彼女はアルシャンクが苦手だった。いや……この結社の中で彼を好いている人間は、ほとんどいない。
 なぜならば、彼の力は“妖術師”のコードネームがついているように、おぞましくも汚らわしい異界の者を使役する。その上、『一瞬の内に百年の時を生きる』秘術と倒した相手を『貪り食う」ことによってその記憶と能力を得る外法を会得している。そのため、彼の名は組織の内でも最も忌まわしいものの一つとして語られてる。
 曰く、最悪最強のアルシャンク。
 曰く、星砕きのアルシャンク。
 曰く、天使食いのアルシャンク
 曰く、血塵−ブラッドダスト−アルシャンク。
 曰く、最凶の魔王、アルシャンク。
 曰く、曰く、曰く、曰く、曰く、曰く!
 コードネーム以外で、これほどの名前を影で囁かれており、その全ては悪意を畏怖をもって語られる。
 だが、彼女がアルシャンクを苦手なのは、それだけではない。
「いや……実にお前らしい」
 アルシャンクが、一瞬だけ、優しげな笑みを浮かべた。
(笑うなぁぁぁぁぁ!)
 背中に虫が蠢くような錯覚に陥りつつ、彼女は心の中で絶叫した。
 結社の中で、ずっと行動するうちに気付いたのだが、アルシャンクがこのような笑みを浮かべる相手は思い当たる中で1人だけ。
 自分である。
 もちろん、他に人間がいる時は、こんな笑みは浮かべない。
「嫌われたものだな。顔に出ているぞ」
「ほほほ……何のことやらさっぱり」
「否定しないところは……“葉月”だな」
「うるへ」
 ふと、彼女は奇妙なことに気付いた。
 否定しない『ところ』は葉月『だな』。
 『お前らしい』ではなく、『葉月だな』。
 『葉月』……。
(私……こいつの素顔を知っている……?)
 彼女の頭の中に、映画のCMのように映像が映された。
 それは自分が知り得ない、自分の記憶。
 過去の出来事。
 瀕死の自分がいた。年齢は……20代後半ほど。
(そんなわけない! 私は今、16だぞ!?)
 3人の友人に囲まれて辛く、しかしどこか幸福感を覚えていた。
 友人……結社の幹部たち。
 1人は、片メガネをした老人。名前はドクターブル。
 1人は、仮面をした自分の弟子。名前は“無貌の”神無月。
 1人は、額に鍵穴のある男。名前はアルシャンク。
 彼らから、悲しみの気配を感じる。
 なんとなく、分かる。自分が死ぬことを。
 だから、彼らに必死で声をかけた。
 何を言ったかは覚えていない。
 ただ、キーワードのように、単語が甦る。
 『暦』
 『大切な……』
 『私を使って……』
 『わた…し………クロー……』
 ブルが泣いた。
 神無月は、頭を振っている。
 アルシャンクが必死で、呼びかけている。
(私は……私は……)
 私は誰?
「どうした」
 アルシャンクの声が彼女を現実に呼び戻した。
「え……あははは。いやーいやー、何でも無いッス、旦那!」
 引きつった笑みを浮かべると、彼女は走り出した。
 知らない自分がいる。
 彼の素顔を知っている自分がいる。
 私は誰?

「ドクターブル。入るぞ」
 アルシャンクが、結社の幹部、ドクターブルの研究部屋に訪れた。
 扉を開けると、毛並みの良い綺麗な顔立ちの猫が、床で『遊んで☆』ポーズをしているのが目に入る。
「にゃあ☆」
「にゃあ」
 彼は猫に挨拶をすると、『遊んで♪』ポーズの猫を跨いで進む。
 すぐ傍の椅子に片メガネをした老人がいた。
「老けたな、ブル」
「30年以上も歳を取らないお前が異常なだけだ。化け物め」
 ブルは、履き捨てるように言った。もっとも、この『化け物』の言葉に、悪意はなく、むしろ親しみがこもっていた。
「何をしていた?」
「こいつを見ていた」
 ブルはアルシャンクの側で……『遊んで』ポーズに痺れを切らしたのか……クネクネ動く猫を指差した。
「お前にゲテモノを愛でる趣味があったとはな」
「お主の使い魔どもよりはマシだ。それに趣味でなく研究だ」
「本質は、俺の使い魔もこいつも大して変らんさ。それにお前は研究が趣味だろう」
 冷笑を張り付かせたまま、アルシャンクは近くの椅子に座った。
 ブルはしばらく黙っていた。やがて視線を壁に移した。
「いるならば、何か喋れ。神無月」
 いつからいたのか、そこに仮面をつけた男がいた。
 ドクターブル。
 “無貌の”神無月。
 “妖術師”アルシャンク。
 結社最高幹部12名のうち、3名が揃い踏みした。
「お前たちもアレを聞いただろう」
「“疾風怒濤の”葉月が脱走したことだな」
 アルシャンクが答えた。
「いずれ、こんな日が来ると思っていた。自分に疑問を持ち、自分を探すために、葉月が結社から抜ける日が」
 ブルは立ち上がると、机の引き出しから、ワインのビンを取り出した。
「酒は持ってきたか?」
「ヘネシー・ブランディーだ」
 アルシャンクがブランディーのビンを見せる。
 神無月は無言で、懐から『大吟醸』と書かれた日本酒と、干しスルメイカを取り出す。
「いずれ、裏切り者として、葉月に刺客を送らねばならない。
 だが、今は。今だけは」
 お互いの酒をグラスに注ぐと、ブルはどこか嬉しげに、アルシャンクは薄い笑みを浮かべ、神無月は無言で、お互いのグラスをぶつけた。
「我らの『娘』の門出に乾杯だ」

「うーん。勢いで、飛び出してきたけど……これからどーしよーかなー」
 陰陽寺高等学校と呼ばれる高校の屋上で、彼女は空をぼんやり眺めていた。
「というか、名前どうしよ? 『葉月』じゃまんまだし……」
 ふと、彼女は近くにグラビア雑誌を見つけた。多分、ここの学生が捨てたものだろう。
 なんとなくページをめくると、『麻生』というモデルが、こちらに向かって微笑んでいた。
「そだな、よし!
 今日から、私は『麻生夏香』! 麻生夏香だ!」
 それは……夏が香る季節のことだった。



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