翼の拳
〜Fists of Wings〜


第29話

作者 茜丸

「もしもし…申し訳ありませんが、
 夏香さんが待ち合わせの場所につくのは、もう少々、遅くなります。」

 夏香は突如、自分の後ろから声を聞いた。
 とても静かで、優しそうな、落ち着き払った男の声…。
 
 だが、そんな事は問題ではない。
 
(何故…私の後ろから声が聞こえる!?)

 夏香はいわずもがな達人である。
 零と戦っている時でさえ、他の刺客が潜んでいないかどうか、
 その精神を研ぎ澄まし、周囲の気配まで精妙に知覚していた。
 そして…

(誰もいないことは確認していたのに…)

 零をやりすごした直後で気を抜いていたから?
 それは必ずしもないとはいえない。
 
 だが、それにしても張り詰めた気を抜いたのは、ほんの一瞬…。
 時間にしてコンマ1秒かそこいらの筈である。

 そんな一瞬の間に自分の真後ろまで「誰か」が接近できるほど、
 近くにそんな「誰か」がいた気配などなかったのだ。

(私に気配を悟らせないほどの男なのか!?)

 一瞬、考えたが夏香はそれも違う気がした。
 自分の後ろにいる男の気配は、余りにも明け透けで、
 それこそ達人の持つそれとは程遠いものだと思ったからだ。

 
 夏香は振り向いた。
 自分の後ろから男の声がしてから約一秒後の事だった。

「…え!?」

 夏香はまたも自分の目を疑った。
 確かに声が聞こえた筈のそこには誰も居なかったからである。

(…幻聴!? でも、確かに気配はあったのに…!)

 その時である。

「どなたかお探しですか?」

 ポン…!と…夏香の肩に手が置かれた。

 夏香は背中に冷たいものが走る感覚を覚え、
 気がつくと反射的にその手を掴み、振り返っていた。

 今度は確かに男が居た。
 全身を赤いタキシードで身を包んだ、金髪の男であった。
 あまりにも場違いなその服装とは裏腹に、
 何故か夏香はそれを「不自然」とは感じなかった。
 
 むしろ、「彼がそこに存在すること」というのが、
 「とても自然な事」のように感じた。

 夏香には、それが自分でも不思議な気がしたが、
 この男が「突如この場に現れた」という頭で考えれば突拍子もない現状を、
 感覚としては「至極あたりまえの事」のように感じていたのだった。

「あなた…何なの?」

 無意識に出た言葉だった。

 目の前に居る存在が「誰」であるのかよりもまず、
 「何」であるのかが分からなかった。
 
 そんな夏香の言葉を聞くと、
 男はやはり落ち着いた様子で、優しく微笑んだ。

 そして静かに口を開いた。

「ヘルメス…」



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