翼の拳
〜Fists of Wings〜


第30話

作者 島村鰐

 ヘルメス。ギリシア神話中における伝令の神。
 あるいは、ヘルメス・トリツメギスツス。トート・ヘルメスとも言う、古代の
伝説的な魔道書の著者。
「ヘルメス」という単語に関して、夏香が自分の知識から検索できたのはその二人
である。勿論、自分と縁のある人間などではない。そんな名など聞いたところで
男の素性が知れるものでもなかった。
「…答になってないぞ」
夏香は勤めてぶっきらぼうに目の前の男に応じる。ヘルメスと名乗った男は少々
悲しげな顔を作って言った。
「あの…何かご機嫌斜めな様ですが」
「初めて声をかけようって相手に対して、いきなりこれ見よがしに力を誇示してあ
たるってのは礼を欠いてるとは思わない?」
経緯が経緯であっただけに、夏香は目の前の「ヘルメス」に対して不快感を覚えて
いた。とはいえ、彼女は別に彼の慇懃で気障とも取れる物腰や、柔弱そうな容姿
が鼻についたというわけではない。むしろヘルメスのような甘い顔容と紳士的な
態度の調和と言うのは嫌いなタイプではなかった。彼女が気に入らなかったの
は、ただこの男がわざわざ自分の背後から声をかけたということである。それも
二度。
 この男が自分にどういう用があるにせよ、自分を呼び止めるだけならわざわざ
気配を絶って背後を取って見せる必要はない。用があるなら普通に堂々と近づけ
ば良いのだ。もしも彼が先程の「零」のような「暦(カレンダー)」の刺客であるのな
ら――夏香にはその可能性が大きく思われた――背後を取った段階で攻撃すべき
である。それをせず、ただ背後を取っただけで話し掛けてくると言うのは、つま
り彼が彼女の背後を容易に取れるのだと言うことを示して、その能力を誇示して
いるのに他ならない。私は君の背後を取れる、その気になれば倒すことも簡単だ
ったのだぞ、と見下され、威圧されたのだと彼女は受け取ったのだ。
 「ヘルメス」を名乗る男が自分の背後を容易に取り得る能力の持ち主であること
も脅威であったが、それよりもそんな能力の優位があるからといって馬鹿にした
態度を取るような人間が大嫌いだったのである。
 虚を突かれはしたもののそれも一瞬、夏香は侮蔑を表した冷淡な目を――その
一挙手一投足を油断無く観察しつつ――男に向ける。
「おお、これは失礼、その通りです。ほんのちょっとした悪戯心で、悪気があった
わけではないんです。お許し下さい」
夏香の反感を理解したのか、男は素直に謝罪の辞を述べ、頭を下げる。その動作
は誠実丁寧で、厭味は感じない。声は相変わらず優しく響き、耳に心地好い。
 良い声だ、と夏香は思った。不思議なことだが、その声を聞くうち先程まで感
じていた不快感が毒気を抜かれて消え去って行くような気すらした。その優しく
落ちついた声には、少なくとも悪意めいたものを感じることは出来なかった。
(…とはいえ、まだ安心するにゃあ早いからね)
夏香は自分の印象の変化に内心苦笑しつつ、さらに男に問う。
「…で、あんたは何?私になんか用が有ったから声かけたんじゃあないの?」
「はい、私はヘルメス、使いの神。あなたに伝えなければならないことが有りま
す…」



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