翼の拳
〜Fists of Wings〜
第68話
作者 茜丸
| トゥエルヴムーンシティの選手用特設病院。 第一試合で月影なのはに敗れたイースターを皮切りに、 次々と重症を負った選手が次々と運び込まれてくる。 「それにしても少し多いですね…」 病院内でも明らかに他と隔離され、 ものものしい黒服の連中が厳重に警備するVIP待遇の病室の窓から、 やってくる怪我人たちを眺めてヘルメスが呟いた。 あいかわらず真っ赤なタキシードを着たヘルメスは、 殺風景な病院の風景におおよそ似つかわしくない。 「大会もまだ始まって間もないというのに負傷者があとを立たない。 いや、むしろ多すぎるかな…」 「辻斬りだ…」 ヘルメスの話ている相手こそは、 この大会の主催者にして暦の幹部サー・ダッシュウッドである。 「随分と古風な言い回しをするんですね…ダッシュウッド」 「大会の開始とともに、有名な選手を狙った辻斬りがあらわれた。 この大会の興行に支障をきたすのが目的か…それとも。」 落ち着いたトーンで、談笑するヘルメスに対し、 苦虫を噛み潰したような渋い表情で答えている。 ダッシュウッドは、元々それほど愛嬌のある人物ではない。 だが、彼を良く知るものであれば、 その時のダッシュウッドの表情に怒りを感じたことだろう。 ヘルメスにもダッシュウッドの様子は気づいていた。 むしろ、恐らく気づいていたというべきか。 というのもヘルメスの様子は、 ダッシュウッドに対してなんら無頓着なように見え、 一見、何も考えていないようにしか見えないものだったからである。 しかし、ヘルメスを良く知るものであれば、 彼が実に他人をよく観察しているということを知っている。 ヘルメスという男は何ごとに関しても無頓着に見えて、 その内では、驚くほど多くの情報を正確に把握している。 それがヘルメスという男が恐れられる一因でもある。 どこまで知っていながらとぼけているのかが読めない。 心に後ろめたいことがある時ほど、 この男には全てを知られているように気にさえなるのだ。 「しかし、貴方らしくもない失態だ…」 この特別に用意された病室のベッドで横たわる男を一瞥しながら、 ヘルメスは相変わらず楽しそうに笑っていた。 「そんなに面白いか?」 「全米ボクシング世界ヘヴィ級統一王者ムハマド=キリ・ギリス…」 ダッシュウッドの問いには答えずに、 ヘルメスは倒れている男について話し始めた。 「『蝶のように舞い、蜂のように刺す』といわれたそのファイトは、 ヘヴィ級というウェイトでありながら軽量を思わせるほどに流麗、 それでいてその拳は一撃必殺を思わせるほどに重厚… 『THE BUG(虫)』の異名を持ち、 専門家の間ではボクシング史上最強との呼び声も高い」 「何が言いたい?」 ヘルメスはダッシュウッドの横を通り抜けると、 ボクシング史上最強の男が横たわるベッドに腰掛けた。 「ボクシングというのは、 それ自体が他の格闘技とは桁違いのビッグビジネスです。 『元』がつく世界チャンプであれば、 何度か異株格闘技戦のリングにたったことはあるが、 ヘヴィ級チャンプを現役で異株格闘技戦に招待できるあたり、 貴方の手腕も流石といった所です。」 「一試合1000万ドルの契約だ。それでも、かなり強引な手を使ったがな。 間違いなく今大会最大の目玉だ。 実際にどこまで戦えるかはさほど期待してはいなかったが、 それが一試合も戦わない内に辻斬りで病院送りとは…笑い話にもならん。」 あいかわらず仏頂面のダッシュウッドに対し、 笑えない笑い話を楽しんでいるようにヘルメスは笑っている。 「医師の話で診察はは、 とてつもなく速く重い打撃を頭部に受けたことによる昏倒… 幸い大した怪我ではないから日程をずらしてでも参戦はしてもらうがな。」 「確かに笑えませんね。」 「本当にそう思っているのか?」 「辻斬りの実力ですよ…」 そう言うとヘルメスは病室のドアを指差した。 そのドアの内側にも外側にも、拳銃を所持した護衛が数名待機している。 更に、入り口からこの病室に続く廊下は一本しかなく、 そこから先は完全封鎖の状態にある。 「チャンプは大会としても、オーナー側としても大切な選手です。 常に完全な厳戒態勢で護衛されていた。 オーナーサイドからはもちろんのこと、 サー・ダッシュウッドから…つまり暦からもね…」 サー・ダッシュウッドの表情が少し変わった。 やはりその変化に気がつく者は限られるが、 それは思いをめぐらせている時の顔だった。 「どういう状況下なのかはわかりませんが、 その完璧な監視がなぜか途切れた。 その隙に…時間にして数秒の間に、 辻斬りは一撃でターゲットを沈めたことになります。 頭部への打撃戦には世界一強い男が、 ガードすることも避けることも叶わない、 更には一撃で意識を失うほどの打撃を放ってね…。」 「狂言だとでも?」 「あるいはね… オーナーサイドが実際の試合を見て危険さに気づき、 大切なチャンプを試合に出すのが怖くなったとかね…。 これほど馬鹿げた超人的能力を持つ辻斬りがいると考えるよりは、 遥かに可能性が高いとは思いませんか?」 サー・ダッシュウッドはしばしヘルメスの目をみた。 ヘルメスはやはりいつもの調子でニコニコと笑っている。 「なるほどな…ならばとりあえず、 オーナーサイドの動向に気をつけるとしてよう。 だが辻斬りが横行しているのも事実。 そちらの処理は10月の仕事になるが、 捕らえた時は一応こちらにも回させ、問いただすとしよう。」 そういい病室を後にしようとしたダッシュウッドに、 ヘルメスが一言つけくわえた。 「夏香さん…葉月ならば可能だとは考えないのですか?」 ヘルメスの問いに対し、ダッシュウッドは一笑に伏して歩き出した。 「その線はないな…」 「どうして?」 余りにも素っ気ない態度に、ヘルメスはもう一度だけ問う。 「葉月であれば、必ず自分がやったとわかるようにやるからさ…」 |