翼の拳
〜Fists of Wings〜


第70話

作者 茜丸

トゥエルヴムーンシティの歓楽街。
そこに立ち並ぶ飲み屋には、まだ昼間だというのに祭気分で客が溢れている。

「よォ…ぶつかっといて挨拶もなしかぁ?」
「俺ら酒代がなくなっちまってよォ…
 兄ちゃんが立て替えてくんねぇかなぁ?」

昼間から酔っ払っているチンピラが数名で囲み、
やや長身で、黒いコートに身を包んだ覆面の男に絡んでいる。

「どけ…」

「失礼します…ヘルメス様」

場所は再びトゥエルヴムーンシティの選手専用病院。
チャンプの眠る特別病室…。
そこではダッシュウッドが立ち去った後、
入れ違いで別の人物がヘルメスを尋ねてきていた。

名前はフライデイ…。
暦11月の…つまりはヘルメスの副官である。
それはある意味、病院の風景には非常にマッチしているといえるほど、
上から下まで真っ白な軍服に身を包んだ少女だった。

彼女は極度の近眼なのか、表情がわからないほど大きなメガネをかけており、
それがややコミカルな印象を与える。
しかし所作には隙がなく、得体の知れない緊張感を漂わせている。
それは彼女が、戦闘に関しても超一流であることを物語っていた。

「…以上の様に、全てはヘルメス様のご命令通り、
 チャンプ襲撃の情報は、滞りなく隠蔽いたしました。」
「ありがとうございます、フライデイ。」

淡々と報告を済ませたフライデイに対し、
ヘルメスは優しく微笑み、丁寧に礼を述べた。

「しかし…無茶をなさる…。
 事実がバレれば、組織への重大な裏切り行為だ。」
「ハイ」

ヘルメスは、なおも悪戯っ子のような、嬉しそうな笑みを浮かべる。

「10月の調査が入るより前に、素早くアレを消してしまわれるとは…
 この事件の犯人を特定できる…というより、
 『彼女』という存在を暦に知らしめる証拠を…。」
「別にこれくらいは、どうということはありませんよ。
 僕が皆から疑われているのは、最初からですし。
 この程度の嘘も隠しとおせないようなら、
 僕はとっくに暦からお払い箱だ」

そう…警戒されて居てもなお、
むしろ、相手の警戒すらも逆手にとって人を欺く。
それこそがこの稀代の嘘つきの本領であった。

「それに暦の意識は、大会…夏華さん…
 そしてあの月影なのはと、かなり分散されています。
 最悪でも多分、今回の辻斬りで暦が『彼女』に辿りつく事はないでしょ。」

ヘルメスは、いいながらベッドで寝ているチャンプを一瞥した。

「『彼女』に関する体験は、人間の記憶に残らない。
 都合のいいことにチャンプも恐らく『彼女』の顔を覚えていない。
 自分がなぜ病院のベッドで寝ているのかもわからないはずです。」

フライデイもチャンプを一瞥したが、
全く興味もなさそうに、ふたたびヘルメスに向き直った。

「しかし、どうやってあんなものを消し去ったのですか?
 『コンクリートの地面に刻み込まれたヒビ』…。
 それを僅か数秒の間に跡形もなく修復なさるとは…」
「僕のスペシャルなマジックです。」

ヘルメスはそういうと、フライデイが入ってきた病室の扉を指差した。

「なっ…」

フライデイは目を疑った。ヘルメスが指し示す方向をみると、
そこに確かに存在していた筈の扉が消滅し、
まっさらな壁だけになっていたのだ。

「目を閉じて3秒数えたらもう一度見て御覧なさい、フライデイ」

フライデイはヘルメスのいうとおりに目を閉じた。
そして、ゆっくりと心の中で3つかぞえて目をあけた。
すると先ほど確かに消滅していたと思った扉は元通りに存在していた。

(幻術…!?いや…これは…)
「手品のタネは秘密ですけどね。」

十二人委員会の一人、11月ヘルメス…
彼は組織内では隠蔽工作と物資輸送などを担当する、いわば雑用である。
確かに仕事の手際も良く、その発想力は天才を感じさせる。

しかし彼はレシェフやディーのような「戦闘系幹部」ではない。
何らかの能力者という噂もあるが、それすら真偽は明らかではない。
十二人委員会ですらも彼に何らかの超能力があるのかはわかっていない。
彼が戦闘することを目撃したものも存在しない。

にも関わらず、ヘルメスは警戒されている。
いうなれば暦内部の人間に最凶と呼ばれる、あのアルシャンクと同等に…。

いや、正確にはこの表現は正しくないかもしれない。
アルシャンクという男は、暦の人間であれば誰もが知る危険人物である。
逆にヘルメスという男は、人を警戒させる危うさというものを感じさせない。
ともすれば人畜無害なお人好しの好青年にしか見えないであろう。

危険を感じさせないこと。それが彼の一番の恐ろしさでもある。
ヘルメスの纏う不思議な雰囲気と巧みな話術は、
いつのまにか人を己のペースに引き込んでしまう。
そして気づけばヘルメスという人間に捕らわれている。

例えるならアルシャンクは、暦において恐らく敵なしの最強であろう。
しかしヘルメスは文字通り敵を作らない。最初から誰とも敵対しないのだ。
それ故にヘルメスの恐ろしさを正しく認識している人間は少ない。

それでもヘルメスを真に知る人間は、やはり彼の怖さを知っている。

フライデイも確信している。
ヘルメスは明らかに何かの能力者であることを。
そしてヘルメスの怖さ、恐ろしさは、そんな能力ではないことも。

「暦には…『彼女』という存在を気づかれるわけにはいかない。
 でも、勘違いしないでください。僕は暦を裏切るつもりもない。
 僕は彼らのこともまた、良き友人だと思っています。それに…」
「それに…?」

ヘルメスの笑顔に少しだけ憂いが刺した。

「暦が『彼女』を知ることは、彼らにとっても破滅を意味する。
 アレは人間が手を出してはいけないものです。
 しかし、知れば必ず手を出す。
 彼らはそういう人たちですからね…。」
「わかっています。
 ヘルメス様が『彼女』の存在を隠すのは、ひいては暦の為でもある。
 でも…」

ヘルメスが言っていることは嘘ではない。
確かに、暦の為にも『彼女』の存在は隠しておくのが最良だと、
フライデイにはそれがわかっていた。

しかし、ヘルメスは本当のこともハッキリいわなかった。
だからこそ、それがヘルメスにとって、
たったひとつの本当なのだということも、フライデイにはわかっていた。

「ヘルメス様が本当に守りたいのは…大切なのは…」

フライデイはそういいかけて言葉を止めた。
そして、少し間を置いて呟いた。

「やはり、あなたは嘘つきだ…」
「ハイ」

ヘルメスは、フライデイに嬉しそうに優しく微笑みかえした。

「痛ェ〜痛えよぉ〜」
「脚が…!俺の脚がぁあ〜!!」

トゥエルヴムーンシティの飲み屋街。
数名のチンピラが大量の血を撒き散らしながら地面にのた打ち回っている。

救急車のサイレンが鳴り響き、人だかりの集まる喧騒の中、
酔っ払いどもをこんな目にあわせた張本人は、
気にもとめずに人気のない路地の裏に消えていった。


 

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