翼の拳
〜Fists of Wings〜
第71話
作者 茜丸
| 「ない…やはり夢でも見たのか?」 長身に覆面、黒いコートの男は、 周囲に誰一人いない整然とした飲み屋街の路地裏に立ち尽くしていた。 それはホンの1時間ほど前…男はやはり、その場所に居た。 立ち尽くしていたわけではない。その時は、息を潜めて待っていた。 ムハマド=キリ・ギリスが… 現役ボクシング統一世界ヘヴィ級チャンプが一人になる瞬間を…。 ボクシングヘヴィ級チャンプこそは世界最強の男と名高い。 しかし、男はそれを信じているわけでもなかった。 ボクシングに限らず全ての格闘技のチャンピオンは世界最強と呼ばれる。 その中で特にボクシングのチャンプがメジャーなのは、 全ての格闘技を通して別格のビッグビジネスであるから。 ただそれだけの事だと考えていた。 しかし、男は油断をしているわけでもなかった。 大きな金が絡んでくるからこそ、その舞台は別格の重圧を持つ。 当然、基本能力からして才能を持つ人間が集中して集まる。 その頂点に君臨する男である。 世界でも指折りの格闘技の天才であることもまた間違いではない。 だが、それでも男は「なんでもあり」であれば勝つ自信はあった。 むしろ男が警戒していたのは、チャンプの護衛であった。 試合以外の場で決してチャンプを戦わせることを良しとしない。 良しとするはずがない。 普段でもプロボクサーにストリートファイトを挑むなど不可能である。 今大会にかり出されてきたからといって、 それが容易になったというわけでも決してない。 逆である。 普段からの護衛はそのままに、大切な招待選手であるチャンプに、 大会サイドからも二重の警備で万全を期している。 「だからこそ、倒す価値がある…」 厳重な警備の目をかいくぐり、その制約の上で超一流の格闘家をしとめる。 それが出来るならば、まさに「最強」…。 そしてチャンスは来た。 何を思ったかチャンプは、護衛を伴わず裏路地へ出てきた。 いささか酔っているようでもあった。 いや、チャンプは一人だけ連れていた。 白い大きな帽子で顔はよく見えなかったが、少女だった。 ヘヴィ級のチャンプに比べると、それはとても小さく見えた。 男はその機会を見逃す筈はなかった。 躊躇することなく踏み出した。 ………。 そこから先を思い出せない。 気がつくと、チャンプはレンガの壁にめり込み、白目をむいて倒れていた。 そして、すぐ近くのアスファルトに深深と刻まれた「Z」の文字…。 男は、チャンプの護衛連中が駆けつけてくる前に素早くその場を後にした。 「ない…やはり夢でも見たのか?」 長身に覆面、黒いコートの男は、 周囲に誰一人いない整然とした飲み屋街の路地裏に立ち尽くしていた。 チャンプがいないことは当然として、 ボロボロに成っていたはずのレンガの壁は綺麗に元通りになっている。 元々、この街のものは皆新しいので、 そこだけが修復されたばかりなのかどうかは見分けがつかなかったが…。 しかし、アスファルトはそうは行かない。 あれほど深く刻まれた「Z」の文字が、 わずか1時間ほどで、綺麗に消滅してしまうとは。 「ケフフ… クフ… クフ…」 「!?」 男は背後から奇妙な笑い声が聞いた…気がした。 だが、周囲には人の気配は全くない。 「ケフ…私がどこにいるかわからないかね、辻斬りさん?」 「馬鹿な…どこにいる!? いや、いつから?」 「生まれた時からさ…」 「ふざけるな!」 男は周囲を見渡して声の主を探すが、どこにもそれらしき影が見当たらない。 「貴様が何者で、僕に何のようかは知らないが、 チャンプを襲ったのは僕じゃない。狙ってはいたがね。」 「クフフ…知っているさ。アンタ…三崎小次郎だろう?…日本刀を使う 有名選手を狙いうちにしている辻斬りは…アンタだね?」 「さあ、それもどうかな…」 「クフ…とぼけなくてもいい… しかし…アンタの被害者は全員、斬撃によって倒されていた。 でも、チャンプを倒した奴は素手だ…アンタじゃない。」 「ああ…その通りだ。」 「それに…チャンプは一撃…一瞬で倒されていた。 アンタじゃ…上手くやっても10分が限界…」 「7分だ…! ボクサーは3分区切りの戦いに慣れすぎている。 臨戦体制で7分動きつづければ終わりがくる。」 小次郎は見えない声の主に対して、それでもなお冷静に対応する。 「しかし…やはりチャンプが倒されたのは夢じゃなかったんだな」 「おっと…これは隠さなくてはいけないのだった… 御館様に怒られてしまう…クフ…」 声の主は、いやらしい笑い声を立てながら、 か細く甲高い…神経を逆撫でするような声で、嘲笑うように喋っている。 「誰かは知らないが大会主催者側の人間のようだな?」 「安心しろ…私たちはアンタに手を出さない… アンタの存在は、むしろゲームをほどよく引き締めてくれるだろう」 !!!!! とっさに小次郎は足元の地面に刀を突き立てた。 刀の先には異形の仮面が貫かれていた。 「ケフフ… クフ… クフ… おみごと… クフフフ…」 やはり最後まで姿を見せず、消え行く声を聞きながら、 小次郎は静かに刀を納めると、再び人込みの集まる喧騒の方へと歩き出した。 |
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