吐き気
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| 「おえっ、げほっ、おええぇっ」 ぴしゃぴしゃっと音を立てて、地面を吐瀉物で染め上げる。 スゴクキモチワルイ。 だが、彼女の魔術を恐れて警察官は遠巻きにしているだけで近づいて来ない。 正義を行使する警察がこれだから、社会は変わらないのよ。 吐きながら、周りの偽善者を睨みつける。 「はぁっ、はぁっ、はぁっ…、政府の犬は腑抜け揃いだ」 荒い息をつきながら呟くリヴィーナ。 「『暦』の犬に言われる筋合いはないッス」 声はリヴィーナのすぐ後ろからした。 慌てて向き返ると、スーツ姿のかなり若い男が立っていた。 「警視庁の緋龍悠浬ッス。逮捕するッス」 殺伐としたこの場とはまるで世界が違う爽やかな笑みを浮かべて、 緋龍悠浬と名乗った青年は手錠を取り出した。 リヴィーナはジロリと悠浬を睨みつけた。 「"デカラビア"!」 リヴィーナは有無を言わせずにヒトデの形状をした魔を召喚した。 魔は回転して飛んで行き、悠浬の肩を切り裂いた。 だが、浅い。 「抵抗するッスか」 悠浬の言葉は淡々としている。 リヴィーナは舌打ちした。 この間合いでは次の召喚が間に合うかわからない。 「それじゃ、容赦しないッス」 「こちらも容赦などしてはいない!」 リヴィーナが新たな魔を召喚しようと書物を広げた瞬間、 顔面を衝撃が襲った。 頬に深深と悠浬の拳がめり込んでいる。 悠浬はそのまま思いっきり殴りきった。 「がっ…!?」 吹き飛んで地面に叩きつけれれるリヴィーナ。 衝撃で一瞬気が飛んだ。 目の前を星が飛んでいる。 「あがっ、がはっ…、こ、この…」 頬を触ると激痛が走り、否応なく意識が呼び戻される。 頬骨が砕けているかもしれない。 怒りを燃える目で、リヴィーナは悠浬を見上げた。 平然と見下ろす悠浬の顔に張りついているのは、 いつもと変わらぬ爽やかな笑み。 悠浬は警察官の死体に一瞬だけ視線を向ける。 「キミはきっと今まで多くの人の命を奪ってきたッスから、 奪われても文句は言えないッスよ?」 歌でも盛れてきそうな口調で、悠浬が膝をついているリヴィーナに言った。 「罪に老若男女は関係ないッス。罪には罰をッス」 気楽な調子を崩さずに、リヴィーナの腹を蹴りを上げる。 「かはっ!?」 リヴィーナは大きく目を見開いて衝撃で宙に浮いた。 「げほっ、げほっ、がはっ!」 空気とともに、血の塊を吐き出す。 魔術による遠距離からの一撃必殺を戦いの信条にしてきた彼女は 近距離の肉弾戦には弱い。 腹を抑えて呻き声を洩らす。 再び、喉の奥から熱い液体が溢れた。 今の一撃で内臓に損傷を負ったのは確実だ。 意識が朦朧とする。 殺される……。 死ぬのは怖くない。 目の前の男が言ったように理想社会のために多くの命を殺めて来た。 自分の理想の実現ために、他人の理想を奪ってきた。 中途半端に、あの世へ行くわけにはいかない。 奪ってきた命への贖罪などという反吐が出る綺麗ごとではない。 今ここで死ねば、私の人生には何も残らない。 全てが無に帰ってしまう。 今まで正義を行使して打ち立てて来た秩序が再び、 混沌へと戻ってしまうような気がした。 それが耐えられない。 気づくと、悠理がリヴィーナの顔を覗き込んでいた。 「……」 無言で彼を睨みつけるリヴィーナ。 魔術の呪文を唱えている余裕はない。 リヴィーナは、自分の拳を振るった。 その腕に、悠理の腕が絡みついてきた。 バキンッ。 骨が砕ける音が響いた。 「がああああああっ!」 リヴィーナの絶叫が木霊した。 緋龍は苦痛に顔を歪めるリヴィーナを人形のような瞳で捉え続ける。 憎悪とか冷酷とか無感情とかからすらも無縁な綺麗な瞳だった。 罪を犯した事のない人間だけが石を投げなさい。 無原罪。 リヴィーナは自分の理想を初めて嘲笑った。 「おとなしく逮捕されるッス。そうすれば、まだ生きてられるッスよ」 「私は……」 まだ死ぬはわけにはいかない。 だが、政府の犬の提案を受け入れるわけにはいかない。 膝を折るは屈辱。 理想を否定されるに等しい。 否定され蹂躙されることに比べれば、無に帰る"死"の方が幾分ましだった。 今までしてきたように、合い入れない他人の正義など必要ない。 正しいのは暦の思想だけなのだ。 「私は誰にも裁かれない! 裁くのは私だけ!」 リヴィーナは魔を召喚するための書物『Lemegeton』を抱き締めた。 「残念ッス」 緋龍の口調は、全然残念がってはいなかった。 声音がまったく変わらない。 彼の腕が、自分の喉元に伸びてくるのを、 リヴィーナは一歩も動かずに見続けていた。 だが、次の瞬間。 緋龍は後ろに吹き飛んだ。 「アルシャンクさま…!?」 リヴィーナは自分の目の前に現れた魔人の名を呼んだ。 「なぜ、ここに? わ、私は召喚魔法など唱えていません」 「…阿呆が錯乱するな。帰るぞ」 アルシャンクはリヴィーナを抱えると、 衝撃から立ち直って起き上がった若い刑事に向かって静かに言葉を放った。 「今は退いてやる。だが、もし次に会うことがあれば、 彼女の礼はさせてもらおう」 「…それはヤバいッスね」 頭を打ったのか、悠浬の額から血が一筋流れ落ちる。 「ヤバい? クククッ…」 悠浬の言葉に、アルシャンクは唇を歪めた。 隙がない。 起き上がった後、彼は一歩も動いていない。 アルシャンクの威圧感に動けないのか、それとも動かないのか。 ただ顔には、額から流れ落ちる血に染まり、場違い度を増した爽やかな笑顔。 この男…。 アルシャンクのミラーグラスが光った。 「会い見える時を楽しみにしているよ」 アルシャンクはリヴィーナを抱えたまま後ろに倒れ込んだ。 そして、そのまま己の影の中に姿を消した。 |
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