吐き気


「逃げられたッス」
 悠浬は頬を掻いた。
「でも、まあ良いッスか。あのミラーグラスの人めちゃくちゃ強そうッスし、
 無抵抗の女性を殺すのは気持ち悪そうッスしね」
 ピピピッ、ピピピッ……。
 携帯の着信音が鳴った。
「もしもし、雪ぴょんッスか? うん、元気ッス」
 朗らかな声で恋人からの電話に応じる悠浬。
「ああ、原因不明の爆発のニュース? うん、今現場にいるッスよ」
 悠浬の脇を堕天使に殺された同僚の死体が運ばれて行く。
「大丈夫ッス。死傷者はゼロだし、ただのガス爆発ッスよ」
 切れたスーツの肩口から血が染み出している。
 あのミラーグラスの人に吹き飛ばされた時に傷口が広がったようッスね。
 新しいスーツ欲しいッス。
 悠浬はそんなことを考えながら、恋人とのデートの約束を確認していた。
「うん、それじゃあ、今夜楽しみにしてるッス」





「アダムの部下は全員無事だそうだ」
 アルシャンクがベッドで横になっているリヴィーナにあの後の状況を教える。
 六月の部下は軽傷者が何人かいるものの逮捕者も出ずに全員が無事。
 一番の重傷者はリヴィーナだった。
 頬骨が砕けて、眼窩にも内部から傷が達していた。
 今は砕かれた左頬と左目を保護するために包帯を巻いているのが痛々しい。
 右腕も骨折のために肩から包帯で吊るしている。
 さらに蹴られた時に肝臓にも損傷を負っていた。
 だが、六月の部下が全員無事ならば、
 リヴィーナには自分の傷などどうでも良かった。
 作戦の失敗は自分の浅はかさにある。
 六月様にこれ以上迷惑をかけずに済んだ。
 それで良い。
 リヴィーナはアルシャンクに向き直った。
「でも、二月さま…何故私を…?」
 アルシャンクは、リヴィーナが折れた右腕を
 庇いながらも懸命に抱えている書物を指さした。
「たまたま通りがかっただけだ。
 それに『Lemegeton』をまだ返してもらってない」
 リヴィーナは──彼女には珍しいことだったが──
 きょとんとした表情を見せた。
 だが、それも一瞬だけだ。
 すぐさま、アルシャンクの言葉の意味を自分なりに解釈して応えた。
「ふふっ、以前に、返せといわれても返さないと言った筈です」
「はははっ、いつも通り良い答えだが……」
 アルシャンクは肩を竦めた。
「助けてやったのに『私は召喚魔法など唱えていません』は、ひどかったな」
 リヴィーナの頬が紅く染まった。


 


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