吐き気

『鬼面』


 薄暗い部屋の中で巨大なモニターだけが不気味に光を放っている。
 そのモニターには眼鏡をかけた若い男が映し出されている。
 そして、その画面を眺めているのはやはり若い男で黒髪を後ろに撫でつけていた。
『あまり面白い見世物ではなかったな』
 眼鏡の男が唇を歪めて、言葉を発した。
「フンッ、平和ボケしているとはいえ、
 日本の警察があれほど無能とは計算外だった、それだけのことよ」
 不遜という言葉を塊にしたような声で、黒髪の男は眼鏡の男に応じる。
「それに、この程度で簡単に崩れる組織ならば利用する価値もあるまい」
『確かに』
「まあ、少しずつ、少しずつ、屋台骨を崩していくのも一興であろう」
 黒髪の男はニヤリと笑い、手の内のワイングラスを揺らす。
 半ばほどまで満たされていた紅い液体が波紋を描いた。
 小さな力が、やがて大きな波となる。
 その時まで力を蓄えれば良いのだ。
『だが、あの魔女を始末できなかったのはしくじりではないのか?』
「……我らにとってヤツが一番厄介なのはわかっている」
 黒髪の男は不機嫌そうに応える。
『何しろ、貴様は目立つからな』
「目をつけられているのは自覚しておるわ。だが、それは今に始まったことではない」
 黒髪の男が嘲笑した。
「その程度のことで私を止めることなどできはせぬ。立ち塞がるものは始末するだけよ」
 ワイングラスに皹が入る。
「万能なる科学力の前では魔術など敵ではない」
『だが、あの女程度なら問題ないとしても『暦』の"妖術師"はその何倍もの力を持っているはず』
「フン、アルシャンクか」
『あの魔女を追い詰めた刑事を一撃で退けていたからな』
「退けるだけでは遺恨が残る。私ならば殺していたぞ。"二月"も意外に甘い男よ」
「甘いか。しかし、侮れぬのは事実だろう?」
「どうせ、いずれは倒さねばならぬ男だ。恐れる必要など微塵も無い!」
 パリンッ……。
 黒髪の男の手の中でワイングラスが砕け散った。
 真っ赤な液体が男の手を染め上げる。
「邪魔者は、このグラスと同じく打ち砕くまでよ」
 モニター内の男は神経質そうに眼鏡の縁を指で押し上げた。
『……期待しているよ。Mr.柳崎。貴様の技術にも、力にもな』
「こちらも、"涅槃"の働きには大いに期待しているぞ、"サテライト・テイマー"」





 柳崎は通信を切った後も、しばらくの間、ソファに越し掛けたまま消えたモニターを見続けていた。
 微動だにせず、じっとモニターを凝視している。
 だが、その視線はまったく違う遠くの何かを見ているようだった。
「クククッ、私と同等のつもりか、ディバイン」
 柳崎は唇の端を吊り上げた。
 邪悪。
 そう形容するに相応しい笑み。
「貴様も所詮は私の駒に過ぎぬわ。"女神"を手に入れる為のな…」
 そして、ワインに塗れた右の掌を開き、閉じ、開いた。
 砕け散ったワイングラスの小さな破片が柳崎の掌に突き刺さり、微かに血を滲ませた。
「せいぜい私の思い通りに働いてくれよ、"涅槃"。そして、"暦"よ」
 黒々とした響きを含んだ呟き。
 まるで、それに応じたように滲み出た血が掌に奇妙な文様を描き始める。
「仙雷と女神。その二つの力を手に入れた時こそ…」
 "鬼"の面。
 血は鬼面を柳崎の掌に刻んでいた。
「フフフッ、フハハッ、ハッハッハッハッ!」
 野望に満ちた男の哄笑が木霊し、闇が血塗られた時代の始まりを告げる咆哮を上げた。


 


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