『アンノウン・キング』


 ゲイリー・カジノブは気分が良かった。薄汚いジャケットにはグラント大統領の肖像が何枚も束になって潜ませてあった。その額は総じて1200ドル。寂しい寒さの1月にあって、懐が温かい。ここ数ヶ月の間、彼はこれほどの大金を手にしたことがない。ストリートファイターとしてトゥーマッチタウンを徘徊し、その貪欲な嗅覚で、彼は“稼ぎ場所”を探しては闘争の場に身を投ずる生活を送っていた。人と殴り合い、蹴り合い、時に噛みつき合うことで金をもらっていたのである。
 
 ここ、ニューヨークからわずかに離れたトゥーマッチ・タウンは、ひどく治安が悪い。悪いからというわけでもないのだが、この町では喧嘩が絶えなかった。若者同士のものだけでなく、大の大人が殴り合うということも珍しくない。いつしか日常的に起こるその喧嘩は、町の住民の娯楽とか化していた。カジノもホッケー場も無い小さな町ではあったが、日夜ファイトクラブは開催された。人々は路上で拳闘を繰り広げるファイターたちに日々の労働で稼いだ金を賭けた。胴元と呼ばれる自ら喧嘩を手配して賭けを市場にする者まで現れ、ますますこの路上の喧嘩はイベント性を帯びはじめ、今では地元の警察すら黙認している。血と絶叫を求めて、遠く離れた地から賭けに興じるためにやってきた「観光客」も少なくない。今では元来の名「Toomuch−Town(最高の町)」の印象は薄れ、「2match−Town(2試合の町)」の名が定着している。この町に訪れたからには、一日に2試合は賭けに参加すべきという意味である。ここでは日が昇り沈む間に10回近い賭博試合が行われている。もちろん、日が落ちた後でも一部の建物内では毎夜ファイトは開催されている。多いときには一日の間に30,40を超えた。それほど血に飢えた町であった。

 一戦につき200ドルくらいは稼げた。
 トゥーマッチタウンでは前述のような理由のため、「観光客」の他に、噂を嗅ぎつけた腕に覚えのある闘士たちが毎日のように町に流れてくる。
 目的はもちろんファイトマネーである。
 200ドルというとそれほど大きな金額ではないのだが、好きなことをしてこれだけ稼げれば、彼らにとってこれほど面白いイベントは無かった。小遣い稼ぎ程度で訪れる者もいれば、腰を下ろして町に根付き、それで生計を立てる者も少なくない。いま現在、人口5000人のトゥーマッチタウンには、200名を超える格闘家たちが滞在し、中には元ヘヴィ級王者のボクサーといった有名格闘家も町の賭け試合に参加しているという。彼らはファイトの勝敗に応じて、町民たちからオッズ(勝算)を定められ、強いか、弱いか、賭けうるかどうかを吟味される。当然、強い格闘家の試合は人気が高く、試合への報酬も高い。

 ゲイリーはその中でも、人気のあるほうである。
 3年前にトゥーマッチタウンに腰を下ろして以来、176戦145勝31敗。この地で強者ランキングでも作るとすれば、ベスト10に入る自信もあったし、今では一試合で並の2倍の400ドルは稼いでしまうほどの人気ファイターだった。
 しかし、金遣いが荒い。
 これは本人も知っていたことだったが、遂に死ぬ瞬間まで治ることはなかった。ファイトマネーを稼いでは、その日のうちに飯と酒代に消えた。そういうわけだから、稼ぎはいいが、400ドル以上の大金というものを懐に持った試しがない。

 だが、いま彼の懐は暖かい。
 この3年間で最も儲けの多いファイトだった。
 相手は昨日ブラジルから渡米してきたとかいう総合格闘家だった。故郷では6人のレスラーを一人で倒してのけたという逸話の持ち主だったが、彼はトゥーマッチタウンを舐めすぎていた。ここでは伝説や肩書きの類は意味を持たない。どんな人間も、肉体一つを頼りに戦う。肉体の他に何か頼れるものがあるとすれば、それは運くらいなもので、過去の栄誉はなんのパフォーマンスにもならない。返ってそれは己への自惚れといった、心技への弊害にもなりうる。ここではそういったものを持たない者が、狼の如く徘徊しているのだった。ブラジルの格闘家はその点を見誤っていた。自信は時に不運すら招くことを知らない。
 ゲイリーはさほど苦戦することもなく、その男を再起不能になるまで壊してやった。ここまでは普段と変わらない。外国から流れてくる格闘家は決して少なくなく、ゲイリーは彼らに対してその度によく制裁を加えてきた。
 ブラジルの格闘家がそういった自惚れた外国人たちと違ったのは、付添がいたことだった。そしてその付添が、ブラジルでは名の通った資産家だったということである。なんでも、男をスカウトしたのもその付添らしく、彼はそのデビュー戦(腕試しという軽い気持ちでもあったのだろう)としてこの地を選んだ。
 「このホセに勝てたら、賞金の倍額、いや、3倍払ってもいい」
 試合前、恰幅のいい付添は自惚れ屋ホセの肩を叩いてそう言った。
 
 そして、ゲイリーは金をもらった。

 さて、この金、どうやって使おう。
 彼は日の沈んだトゥーマッチタウンを歩いている。
 夜になると、流石に人の気配が絶える。昼下がりの活気は今や見る影もない。
 「ありがてえブラジル人」
 彼はその言葉を歩きながら何度も口にした。やはり、金がこうもたくさんあると自然と口元が緩む。
 この金で何を買おう、これだけの金、まさか全部酒代に消えるはずがない。きっと余る。それにその余った額だって半端じゃないはずだ。ありがてえブラジル人。そっちの言葉じゃ「オブリガーダ」っていうのかい。

 久しく感じたことのない興奮に胸を躍らせ、彼は行きつけの酒場へと足を進めていた。日が落ちても、部屋の灯りが消えても閉まることのないあの酒場。彼はあそこがお気に入りだった。炙られた豚肉、癖のあるタマネギの香り、後味のいい安酒。どれも最高のディナーだったが、今日はもっと高いものを注文してやろう。ストリートファイト仲間のハンスとアート、小僧のダニーにも奢ってやろう。ろくでなしのブルドッグ・ジョーにも今夜は特別だ。
 それでも余る。余るはずさ。

 ゲイリー・カジノブは気分が良かった。
 生まれて以来、最高の幸せかもしれなかった。
 大金を持つ、ということがこれほど素晴らしいこととは知らなかった。
 彼は満足していた。今日の酒が楽しみだった。


 ふと、彼は足を止め、辺りを見回した。
 日々、決闘の舞台に身を置く彼の獣性に近い嗅覚が何かを嗅ぎ取っていた。
 異質な風。灰色の殺気。射抜く視線。
 何かがおかしい。
 彼の周囲で何かが起こっていた。
 その何かは一歩、また一歩と確実に彼に近づいていた。
 迫ってくる、といったほうが、表現としては近い。
 彼は10代の若者たちの間で、この町に幽霊が出るという話があるのを思い出した。
 もちろん彼は信じていない。
 死んだ人間が再び生者の前に姿を現すというのなら、この町には死人が多すぎた。
 いまだかつて彼はそんな死者の姿を見たことがないし、見るはずがないと考えていた。

 異質な風。灰色の殺気。射抜く視線。

 ―――ゲイリーは拳を上げ、両足をしっかり地面につけた。

 ゲイリーは遂にその金を使うことがなかった。
 ゲイリーは遂にその金で酒を飲むことがなかった。


 そして、トゥーマッチタウンの悪夢がはじまった。

 


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