『アンノウン・キング』
3
「カッ!」
褐色の剛腕が男の顔面を打ち抜く。薄汚れたワイシャツを着た、拳撃の黒人は大柄だった。粗暴なまでに鍛えられた筋肉の鎧を纏い、その外観は逆三角形を形作っていた。拳は異常なほど大きい。理想的なハードパンチャーの肉体であった。
グレッグ・バクスターは崩れる男に対してさらにもう一撃見舞い、一笑した。
「Weak(弱えぜ)!」
対戦者のダウンとともに、彼らを取り巻いていた観衆が歓声をあげた。ここニューヨークの裏街道でも、賭け試合は頻繁に行われていた。
「相変わらずだね、“負け知らず”」
ヒッピー風の若者が一人、グレッグに近づいてきた。ラス・チャキリスだと、グレッグはすぐに分かった。価値観に縛られない独特なファッションに、剥き出しの歯茎。それほど親しい仲ではないが、グレッグの試合にはいつもやって来る。歳がだいぶ離れているにも関わらず、よく言えば人なつっこく、悪く言えば不敬にも、試合が終わるたびにグレッグに軽い調子で言い寄ってくるのであった。
“負け知らず”とは、グレッグの異名を指す。
日々喧嘩に身を置きながら、負けたことがない、という。その真偽はともかくとして、彼は“負け知らず”で通っている。特にストリートファイト界では名が知れていた。強いことには変わりがない。その拳を主軸にした野性的なスタイルに、路上のタイソンといった呼び声も高い。
「当たり前だろ。俺は未だに“負け知らず”。勝てる奴ぁいねえのさ」
「ハリー・ノーランを除いてだろ」
ラスが言葉を挟む。グレッグは禿げた頭を撫で上げてにやりと笑い、ラスの胸を小突いた。
「バカ野郎。あいつでもこのグレッグ様の拳には敵わねえよ」
そう言って、若者の前で腕の筋肉をアピールして見せた。盛り上がる肉の瘤が、拳の破壊力を物語っている。
グレッグの悪友ハリー・ノーランとは久しく会っていない。学生時代、軍隊時代に生活を共にし、最近まではコンビを組み、ストリートで戦いに明け暮れていた。ハリーも、強い。
ラスの言葉か正しいのか、あるいはグレッグの自負が勝っているのかどうかは定かでないが、ともかくグレッグとハリーの二人はニューヨークでは最強のコンビとして語られている。ある時などはストリートファイトの枠を超えて、町を牛耳っていた悪党を二人だけで壊滅させたこともあった。しかし、ハリーは既に元妻の死を理由にストリートファイトを引退していた。今では残された娘を引き取り、保安官として生計を立てていると聞く。
「ハハ、まあ今日もサイコーの試合だったぜ」
ラスが笑い、グレッグも笑った。
「俺はいつでもサイコーさ。そうだろ?」
グレッグは立ち上がり、どこへ行くというあてもないまま、歩き始めた。ラスもその横に並び、取り止めのない会話をはじめる。ハイスクールでの出来事や、先日のファイトの感想など、グレッグは半ば聞き流し気味に耳を傾けながら、活気に満ちた街道を歩いた。
「なあ、トゥーマッチタウンって知ってるかい?」
洋服店を通り過ぎたところで、ラスが言った。
その言葉を受けて、グレッグははじめて反応らしい反応を見せた。
「そら、俺のような男が、知らねえってのが可笑しいぜ」
そう言って笑う。
「実は俺の学校で、ちょっとした噂が合ってさ」
「へ、何だ。言ってみろ。さしづめ、例の元ヘヴィ級王者があの町に滞在してるって噂だろう。そいつは当たりだよ。サイン色紙持ってあの町に行けば、てめェの部屋の壁が有名人のサインで埋まるだろうぜ」
ラスは驚きもせずに言い返す。
「そんな話は低学年のガキでも知ってる。トゥーマッチタウンのイカれぶりは有名さ。サインのことだってみんな一度は考える。でも、あそこに行くには命を捨てる覚悟が必要ってのも有名だろ?」
「その通り」
グレッグはまだ笑みを残したまま、頷いた。
「お前みてぇな若造が、遊び半分で行けるような町じゃないな」
グレッグは聞いている。というより、実際に訪れ、有名なトゥーマッチ・ストリートファイトに参戦した経験もある。今までに何度かあの町を訪れているが、その印象はいつ訪れても「最悪」だった。
ストリートファイト自体は悪くない。
流石にその道で有名なだけあって、闘士たちも曲者揃い。グレッグにしてもなかなか歯ごたえのある連中ばかりが町中に巣くっていた。闘いの愉しみを知る者にとっては、その美酒に事欠かない。
問題は、町の治安の悪さである。
薄汚い町並みに、昼間から酒を片手に通りを歩く中年男性。ナイフを持ち、町民を威嚇しながら(決して彼らは素手で喧嘩をすることはない)たむろする若者たち。間違っても、ラスのような普通のハイスクールの青年に行ってほしくない場所だった。
「それで、その噂ってのは何だ。王者滞在じゃないとすりゃあ、お尋ね者のテロリストでも潜伏してるって類か」
ラスは首を振って、答えた。
「信じる信じないは別だぜ。……でも、笑わないで聞いてほしいな」
「笑わねェって。さ、言ってみろ」
ラスの控えめな態度に、グレッグはにやにやしながら話の続きを催促した。
青年は言いにくそうな口振りで静かに言う。
「幽霊が…出たらしいんだ」
「ウハハハハハッ!」
グレッグは吹き出し、爆笑した。
「笑うなって言ったろ」
ラスの声も空しく、グレッグは町の中で豪快に笑った。
「ウハハハ。幽霊だと。ラス、お前いくつになった。え?これを笑うなって話が無理だぜ。おい、ラス、もう一回言ってみろ。ウハハハ」
通行人たちが訝しげにこちらを見ている。恥ずかしい。ラスは赤面し、グレッグが落ち着くのを待った。ようやくグレッグが笑いに一区切りつけ、肩を揺らしながら笑いを堪えてる状態になると、ラスは続けた。
「最後まで聞けよ、グレッグ。ここまでは確かにガキでも怖がらないチンケな怪談さ。ついさっきまでは俺だって、笑って聞き流してたさ。それこそ、今のアンタのようにね」
グレッグはまだ笑いから抜け出せないでいた。
「どうやら話の続きがあるらしいな。よし、話せ。とびきり面白い話を期待してるぜ」
ラスは勿体ぶって(というより、グレッグの反応を懸念して)、低く呟いた。
「今朝、トゥーマッチタウンで死人が出たらしい」
グレッグの肩の揺れに、わずかに変化が生じた。
トゥーマッチタウンは治安が悪い。
来る者を拒まないその町は、流れてくる者も多ければ、いまこの瞬間に死ぬ者だって多い。
それこそ殺人事件は日常茶飯事だったし、マフィアどもの抗争だって絶えない。
時には、ごく希とはいえ、ストリートファイトで死人が出ることだってある。
グレッグはそういう町の状況を知っている。
だからこそだった。
ラス・チャキリスは「死人が出た」と言った。
この若造がどれほど世間を知らないとはいえ、トゥーマッチタウンといった噂の類に対する認識は一般の大人のそれを超えているはずだった。
「へえ」
グレッグはあくまで笑みを浮かべながら、ラスの次の言葉を待った。
彼は、気になり始めていた。
ラスが、なぜ「死人が出た」と“敢えて”言ったのか。
トゥーマッチタウンの死人の話など、その町に通じている者ならば、まず言わない。
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