『アンノウン・キング』


 シンシア・スミスはまるで何かに取り憑かれているかのように、一定の歩幅を保ったまま、無表情でニューヨークの裏通りを歩いていた。両目はサングラスによって人目から隠れてはいたが、どこか一点を真っ直ぐに見ていることだけははっきりと分かった。彼女は美しかった。アッシュブロンドの髪が一月のそよ風に撫でられて、ふっと浮き上がる。白い肌に、端正な顔立ち、何よりすらりと伸びた長い足が魅力的だった。彼女をすれ違う男性の多くが、偶然を装って振り返り、彼女の後ろ姿を眺めた。男たちの多くが、少し早い春の女神の訪れに心を癒されていた。


 少し離れた場所で、グレッグ・バクスターは褐色肌の男と向かい合っていた。相手は上半身の筋肉をこの寒い空気に晒しながら、体を揺らしてステップを踏んでいた。対するグレッグは両の拳を胸の辺りまで上げ、じっと止まっている。彼らを何人もの観衆が取り巻いていた。今日もニューヨークではストリートファイトが行われていたのだった。
 「グレッグ」
 褐色の男が体に揺れを与えながら言う。
 「お前の不敗神話もここで終わりだ」
 グレッグは口笛を吹いて答えた。
 軽く素振りをし、まるで老婆が子供に語りかけるかのように言う。
 「おやおや、ハーヴ。お前、抜けた歯は生えてきたかい」
 意気込む褐色の男とは対照的に、彼は余裕をもち、楽しんですらいた。その余裕を可能にさせる自身がグレッグにはある。
 「ぬかせ」
 グレッグの声に、褐色の男ハーヴェイは拳を上げて突っかけた。
 「始まったぞ」
 観衆が声をあげる。
 体重を乗せたスピードのある右ストレートは、グレッグの顔面に直撃する寸前で空振りに終わった。
 ハーヴェイの闘志は、彼に留まることを許さなかった。
 続けざまにグレッグを追い、左のフックを放つ。だがこれも躱された。
 ハーヴェイの勢いはその後も止まることなく、機関銃の如き戦法が展開されたが、
 グレッグのほうはダッキング、スウェーといった技術を活用し、巧妙に避けていた。
 「ぬっ」
 ハーヴェイが、はじめて足を使った。
 鋭い足撃がグレッグの股間目がけて跳ね上がった。
 しかしこれも、グレッグは軽く後ろへ飛ぶことだけで躱す。
 「甘いな。スピードこそ申し分ないが、攻撃が直線的だ」
 目前の相手の指摘には動ぜず、ハーヴェイは彼なりの闘い方を貫いた。
 グレッグはそのたびに体をうまく反らして躱していく。
 「変える気なしか。一発だな、ハーヴ。また、一発だ」 
 観衆から野次が飛んだ。事実、そうだった。
 ハーヴェイは先ほどから攻撃をし続け、相当量の疲労が蓄積しはじめていた。
 当てればいいんだ、当てれば。
 ハーヴェイは意を決して飛び込んだ。
 一打目の攻防両用の踏み込みとは違った、完全に攻撃に重点をおいた踏み込み。
 攻撃は、最大の防御。
 褐色の拳が風を切って唸った。剛腕の名に相応しい破壊の拳が放たれた。
 「よっ」
 だがしかし、そこに一際大きな剛腕が割って入った。
 まるでこの時を狙っていたかのように、ハーヴェイの攻撃に合わせて、グレッグはメジャーリーグのピッチャーが投球するような格好で拳を振り抜いた。
 ハーヴェイの歯が、またしても粉砕された。
 一発で。
 「ダメだ、ハーヴ」
 グレッグは言い、口笛を吹いて構えを解いた。
 「ここ一番の攻撃が隙だらけだぜ。出直しな」
 重心を失ったハーヴェイの体がややふらつき、そして倒れた。
 周囲から歓声があがる。グレッグの不敗神話は容易に守られた。

 いつも通り。すべてはいつも通りだ。

 ラス・チャキリスをはじめとするグレッグの友人たちが、試合後、腰を休める彼の元へと集まってきた。彼らは次々に今日の試合の感想や今後の予定を話し、口々にグレッグの強さを賞賛した。グレッグは頭を垂れながら、彼らの賛辞を聞いていた。彼は闘った後より、闘った最中のほうが好きだったが、観衆たちの感想も嫌いなほうではなかった。むしろ好んですらいる。好きな喧嘩で生きることが幸せなら、その喧嘩を褒められることもまた、彼にとって嬉しい喜びだった。“負け知らずのグレッグ”。彼は自分のその呼び名が好きだった。

 闘いが終わる度に、彼をそう呼ぶ。

 「あなた、いい人ね」
 「ん」
 そこに、一人の女性が立っていた。
 ブロンドの髪が美しい、若々しい肌の女性。少なくともこのような裏路地では一度も見たことがない。
 「いい人?」
 グレッグは禿げた頭を撫でながら、嬉しそうに応えた。
 「それはどうかな。あんたみたいな美しい女性を無理にどっかへ連れ込むような真似はしないとは思うが。うむ、しかし、毎日人を殴って稼ぎにしてるような男だぜ。いい人ってのはほど遠い」
 「私の町では、そういう男を“いい人”と言うの」
 グレッグは笑った。女性の顔をはっきりと確認した。少し冷たい態度を除けば、いい女だ。その点はおそらく周囲の連中も同意見だろう。
 「へえ、俺にとっちゃ理想郷だな。一度行ってみてえもんだ」
 「トゥーマッチタウン」
 「え?」
 「それが私の住む町の名前」
 グレッグは微かに口元を歪めて笑った。
 なるほど、あの町なら“強い男”は“いい男”だ。
 何せ、野蛮な喧嘩(ファイト)で成り立ってるような町だからな。
 「トゥーマッチタウンか」
 彼は女の言葉を咀嚼して味わいながらも、一方では別のことを考えていた。

 嫌な予感がしてきたぞ。
 というより、遠くへ押しやっていた記憶が再び少しずつはあるが近づいてきている。
 できることならば、思い出したくない。
 女、頼むからここを去ってくれ。ここはあんたのような女性が…

 「ゲイリー・カジノブをご存じね」

 ああ、ちくしょう。言いやがった。

 「…知ってるよ」
 グレッグは呟くように言った。声のトーンが無意識のうちに下がっていた。
 やはり、思い出したくない。あいつの姿――フランケンシュタイン。
 「ゲイリー・カジノブとは、一度だけ闘ったことがある。強い男だった。間違いなく、あんたらの言葉で言う“いい人”だったろう。それくらい強かったな」
 「でも、あなたは勝った。そのゲイリー・カジノブに」
 「当たり前さ。俺に勝てる奴はそうはいない」
 「ゲイリーは殺されたわ」
 「知ってる」
 そして、二人目の犠牲者が出たことも。
 ラス・チャキリスはジョークでも飛ばすかのようにその話を持ちかけてきたが、こればかりは敵わなかった。何ともヘドの出るような話だ。
 「それで、何なんだ?
  見るところ、あんた、わざわざ俺に会いにあの町から来たんだろ」
 女性は頷いた。
 「その通りよ。私は依頼人としてここへ来てるわ」
 「依頼人?あんたが俺を雇うっていうのか」
 「ええ。トゥーマッチタウン連続殺人事件の犯人を捜してほしいの」
 グレッグは苦笑した。
 「くっくっ、そいつはお門違いだぜ。その手の話は俺じゃなく、探偵だろ。いや、ゴーストバスターズってもありかな」
 そう言い、ラス・チャキリスを見て笑った。
 「警察の調べでは、犯人は力技で心臓を抉ったそうよ」
 「力技ねえ、ハハ」
 内心では心臓の話には触れてほしくないと思いながら、グレッグは適当に相づちを打った。はやくこの話を終わらせたい。
 「そして、ゲイリーも次の犠牲者も、反抗した後があった。
  彼らは縄でも鎖でも、縛られてもいなかったのに。つまり…」
 「おいおい」
 グレッグは予想しうる次の彼女を言葉を察し、口を挟んだ。
 「それ以上はやめときな。狂ってると思われるぜ」
 「いいえ、続けるわ。人はトゥーマッチタウンのトップファイターと向かい合って、闘った。ゲイリーはストリートファイトで殺された」
 「よせよ。あんたみたいな女性がそんなこと言うべきじゃねえ」
 「現に、殺された二人はどちらもストリートファイター。警察はあまり重要視してないようだけど、彼らの共通点はそこだけよ」
 「だが、普通の人間が考えることじゃない」
 「普通ですって?」
 女性は肩をすくめてみせた。
 「私たちが普通なわけないわ。いいえ、これはあなたにも言えるはずよ」
 グレッグもこれには言葉が無かった。
 私たちとはトゥーマッチタウン。
 そして、場所は違ってもやっていることはグレッグも彼らと同じ事をしている。
 たしかに、普通じゃない。
 「少なくとも、彼らは私と同じ事を考えてるわ」
 「悪名高きトゥーマッチファイター」
 グレッグは嫌味を込めてそう呼んだ。
 「そう。彼らは既に気づき始めてる。動き出すのも近いわ。いえ、もう動いてるかも」
 彼女は少し間をおいて言葉を続けた。
 「でも私は彼らを信用してない。ゲイリーが勝てなかった奴に、彼らが勝てるとは思えないから」
 「それで俺か」
 「ゲイリーを、倒したんでしょう?」
 グレッグは頭を両膝に埋めて考え込み、そして立ち上がった。
 「ダメだ。そんな馬鹿げた話、ついていけねえ」
 「でも」
 「あんたの話は作り話だ。どいてくれ」

 グレッグ・バクスターはその場を去ろうとした。
 視線が彼の背中に向けられていた。
 早くここを去らなければ、去ろう。去ろう。
 だが、彼の背に向けられた視線は、グレッグにゲイリー・カジノブを思い出させてならなかった。
 たった一度しか闘わなかった相手。
 たった一度ではあるが全力を出して戦えた相手。
 ストリートファイターに絆があると思うか、グレッグ?
 まして、よその町の奴なんかに?
 「ちくしょう」

 「ゲイリー・カジノブは私の恋人だったの」
 彼女の声が、グレッグの耳に入った。
 「彼は強かったわ。でも、負けてしまった」
 か細い声がグレッグを捕らえて離さなかった。

 ストリートファイター殺し。
 ちくしょう、なんだって俺は。

 「俺は阿呆かな。どうやらあんたの言うように普通じゃないらしいな」
 グレッグは踵を返し、彼女の元へと歩を進めた。
 顔は依然として不機嫌そうだが、先ほどとはうって変わった雄々しさがあった。
 「手伝ってくれるんだね」
 女の言葉に、グレッグは笑いながら首を振った。いや、内心ではすでに決めているのだろう。
 「そいつはまだ分からんぜ。友人に相談してからだな。あんた、ハリー・ノーランを知ってるか」
 「私の名前はシンシア。シンシア・スミスよ」
 グレッグはシンシアの肩を叩き、歩み始めた。
 「OK、シンシア。俺と一緒にハリーって野郎を捜してくれるか。話はその後だ」

 


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