『アンノウン・キング』
12
ハリー・ノーランは両手に頭を埋めたまま、考えごとに耽っていた。
ニューヨークの一角に佇む酒場『アシュリー』はトゥーマッチタウンの酒場とは対照的に賑わっていた。店内のあちこちで男女がワインを交わしながら会話を楽しんでいる。角に置かれたレコードからはマーヴィン・ゲイの『ホワッツ・ゴーイン・オン』が流れていた。感覚を撫でるような優しい香りが店内を漂い、魅惑的な灯りが空間をやはり魅惑的に照らしている。古風なレンガ造りの壁は、かえってこの店に素朴な高級感をもたらしていた。
「コリン」
ハリーは顔を埋めたまま、バーテンの名を呼んだ。
「もう一杯くれないか」
「飲み過ぎではないでしょうか」
バーテンはグラスを磨きながら目の前で頭を垂れた長身の男をいましめた。ハリー・ノーランの頬はほんのりと赤くなっている。彼は2時間前からずっと飲んでいた。
「うん?たしかに、だいぶ飲んでるな。やめとこうか」
ハリーは顔を上げ、店内を見渡した。壁に掛けられた時計が9時10分を指している。店内には仕事帰りと思われるスーツ姿の男女が過半数を占め、上品にワインを飲み交わしていた。それから、若者が6人。若者たちはきまって男女二人のペアだった。
「9時か」
「ええ、ですが、まだ来てません」
「たしかにあいつは今日の夜7時にここで会おうといったはずなんだが」
「聞き間違えたのでは?本当に今日の7時ですか?」
「そう言われると自信無くしてくるんだよな」
そう言って、ハリーは空のグラスを手に取り、底に残った一滴の雫を喉に流し込んだ。
『母さん、こんなにも多くのものが涙の雨を降らせるんだね』
マーヴィン・ゲイが静かに愛の無いこの時代を嘆いていた。
「またこの曲流してるのか。たまには別の曲をかけてみるのもいいんじゃないか?」
「お気に召しませんか」
「いや、嫌いってわけじゃないんだが、どっちかって言うと俺はロックが好みだな。この店にはちょっと合わないだろから、ポリスをかけろとは言わないけど。これじゃちょっと気分が落ち込まないか?」
「マーヴィン・ゲイが歌うのは憂鬱の世界ではなく、むしろ希望された愛です」
「希望された愛。そうかねえ」
モータタウン・レコードからデビューしたこの才能あるシンガーは最後まで愛の歌を唄い続けたのだった。長年連れ添ったパートナーの死後、その姿勢は色濃く出始め、内省的な精神に呼応する作品を数多く創作。代表作『悲しいうわさ』は68年に7週に渡って全米No.1に輝いている。古き良きアメリカが誇るスーパースターの一人だった。
「娘さんはどうされたんですか」
バーテンダーのコリンは笑顔でハリーに尋ねた。
ハリー・ノーランには一人娘がいる。
その母親が数年前に他界して以来、彼が引き取って面倒を見ている。
「あいつももう大きいからな。一応、知り合いに頼んであるけど」
『愛を注ぐ方法を考えよう、神よ、もうたくさんだ』
入り口の扉が音を立てて乱暴に開かれた。外から、大柄な黒人と美しい女性が入ってきた。グレッグ・バクスターとシンシア・スミスだった。
「よう、ハリー!久しぶりだな!」
グレッグは周囲を気にせずに声をあげて友人の名を呼ぶと、シンシアの肩を抱いて押しやるようにハリーの隣に座らせ、自分もまたハリーを囲むような形で友人の隣に腰を下ろした。
「コリン、ビールだ。2つ。ん、友人、グラスが空だぜ。お前も頼めよ」
「もう何本も飲んで真っ赤だよ、え、グレッグ、お前7時に『アシュリー』って言ったよなあ」
「言った言った、ハハッ。たしかに言ったよ。けどまあ、もう何年もの付き合いだろ、ハリー。それくらい分かってもいい頃じゃないか?それとも長い間会ってねえんで、俺って男を忘れちまったのか?」
「ああ、畜生。いま思い出したよ、“負け知らず”グレッグ・バクスター。まあいいさ。ハナからお前の言い訳なんざ期待してなかったんだ」
ハリーは振り返り、右側に座った女性を見た。
「あんたがシンシア・スミスだね」
入り口から歩き姿でその姿に一瞬見とれそうになったものだが、間近で見るとその美しさが一層際だって感じられた。
「そうよ、ハリー・ノーラン。お話はグレッグから伺ってるわ」
「あいつの言うことは最初から最後まで信用しちゃダメだ。言葉の薄っぺらさじゃ政治家よりタチが悪いから。俺の話は俺自身で話そう。君の話は君自身でだ。オーケイ?」
「ダメだぜ、ハリー。お前ェ、ガキがいるだろうが」
後ろでグレッグが冷やかし、豪快に笑った。
簡単な挨拶と自己紹介を済ませ、グレッグは本題を切り出した。
「もうだいたい察してるだろうが、俺たちはトゥーマッチタウンへ行こうと思う。できればてめェにも一緒に来てもらいたい」
ハリーはグレッグに無理矢理注文されたビールを喉に流し込み、少し考え込んだ。
「トゥーマッチの連続殺人犯を捕まえるためにか」
「そうだ」
「もっと理屈にあった動機はないのか?」
「捕まえる、で分からねえなら、殴りに行く、でどうだ?」
ハリーは苦笑した。グレッグもグラスを傾けながら苦笑した。
「悪いが、俺はノーだな、グレッグ。こいつは俺たちの範囲を超えてる」
「ストリートファイターだけが狙われてるって点はどうだ」
「偶然だろ。元々そういう連中が多いような町だぜ。グレッグ、お前はどうなんだ?心の底では信じてないんじゃないか?俺たちの出る幕じゃないと思ってるんじゃないか?」
グレッグは少し間を置いて答えた。ハリーはこの間が奇妙に思った。
「そいつは俺にもわからん」
「ますます理屈に合ってないぜ。よく考えろ」
「分からんが、行ってみようって気になったのは、そこのお嬢さんがストリートファイターが殺されたって言ったときだ。殺されたストリートファイターの二人。そのうち一人、つまり彼女の恋人のゲイリーだが、彼とは俺も一度闘ったことがあってな。それで、畜生。分かるか?ハリー?」
「この前闘った奴と友達になっちまった、か?それで今度はそいつの弔いに?いい加減しろよ、グレッグ。ビデオゲームのキャラクターじゃないんだぞ」
「お前にも分かるはずさ。こういう話は、お前だからこそ分かる」
「トゥーマッチタウンへ行ったことは?」
シンシアが口を挟んだ。
「一緒に行ったことは…無ェよな」
グレッグの言葉に、ハリーは頷き、「ノー」と呟いた。
「俺は0(ゼロ)だ、ミス・スミス。こいつとも行ったことなければ、一人でも行ってない。闘士たちの聖地、2試合の町。噂には聞いてたが、結局行くことはなかった。だからあんたの恋人のゲイリーも、第二の犠牲者ミスター・マガウンって奴にも会ったことがない」
「フン」
グレッグが鼻で笑った。
「要するに、いまも昔も腰抜けってわけだ」
ハリーはビールを一気に飲み干し、口をすぼめて酒気を帯びた吐息を吐いた。金髪を掻きながら言う。
「グレッグ。昔と今で違うことくらい、俺にだってある。俺はもうストリートファイターを引退して、真っ当に仕事をして暮らしてるってことだ。もう面倒なことはゴメンだな。特に、理由のはっきりしないことにはウンザリだ」
「ハッ!」
グレッグが突然立ち上がり、一笑した。
「理由?そうだったな。お前は理由が欲しいんだったな。理由ならあるぜ」
グレッグが指さした先にいるシンシアは畏まって座っている。俯き加減でハリーの表情を窺っていた。
「見てみろ。輝きを失った宝石だ。なんでこんなに色あせてやがる?ゲイリー・カジノブが死んだからだ。愛しい人が先に天国行っちまったからだ。失ったモンの悲しみはてめェが一番分かってるんじゃねえのか?」
「酔ってるな」
「酔う?酔う、だ?え?」
グレッグはハリーの肩をドンと叩き、笑った。
「てめェより後に飲み始めて、てめェより先に酔っぱらうってことがあるかよ、ハリー・ノーラン!」
あまりの大笑に、周囲の客が怪訝そうにこちらを見ていた。バーテンのコリンも流石にこれはとばかりに、グレッグをなだめに入る。コリンの頭をポンポン叩きながら、それでもなお笑うグレッグだったが、ふと腕時計に目を留め、唸った。
「ぬ、長居をした。俺は今から彼女をトゥーマッチまで送り届けなくちゃならん。明日また会おうぜ。いい返事を期待してる。それじゃあ、また“夜7時にここ”だ。ハハッ!」
そう言って、ハリーとシンシアの背中を叩くと一人入り口へ去っていった。
「ハリー」
立ち上がりかけて、シンシアはハリーの横顔を見た。ハリーはぼんやりとした目でどこか遠くを見ている様子だった。
「ん?」
「私もいい返事を待ってる」
「期待はするなよ、お嬢さん」
シンシアも去り、遠くで車のエンジンがかかる音がハリーの耳にも聞こえた。
いつの間にか、店内の客も減り始めていた。
正面ではコリンがやはりいつもと同じようにグラスを磨いていた。
『同胞よ、仲間が次々と死んでいく』
ハリーの頭の中ではマーヴィン・ゲイの『ホワッツ・ゴーイン・オン』が繰り返し流れていた。既にその曲は流し終わり、店内にはライオネル・リッチーの優しい旋律が流れていたのだが、グレッグが来てからというもの、マーヴィンの歌は耳から離れることがなかった。ずっと、愛の必要性をハリーの耳元で語りかけている。
愛?マーヴィンが歌ったのは愛だったか?
『愛だけが憎しみに勝つことができる』
そうだ、本物の愛をマーヴィン・ゲイは歌った。最後まで歌った。戦争の無意味さ、愛の尊さを最後まで訴え、何人もの心優しき若者の共感を得たのだ。
『ああ、この世で何が起こっているんだ?考えてくれ、“一体何が起こっているんだ?”』
ハリー・ノーランの妻は数年前に他界した。
平穏な生活を厭い、喧嘩に明け暮れ、軍にまでその逃げ場を求めた彼は、妻の死のその時まで、本物の愛の使い方を知らなかった。
いや、待て。ハリー。そいつはどうかな。
お前は、今も、知らないのではないか?
グレッグは言った。「失った者の悲しみはお前が一番よく分かる」と。
ああ、分かる。失うことは最悪だ。もっと最悪なのは、失った後だ。終わりのない悲しみ。延々と続く暗き淵。救い手の来ない洞穴。俺はいつだって彼女のことを忘れたことがなかった。忘れられるはずがない。俺はいつ救われる?
「コリン」
「はい」
「もう一杯頼む」
『そう、その調子で、ベイビー、このまま進んでいこう』
ハリー・ノーランは、マーヴィン・ゲイが誕生日パーティーの席で実の父親に射殺されたことを思い出した。
| 第13話に進む |
| 第11話に進む |
| 図書館に戻る |