『アンノウン・キング』

13


 そうだ、俺は知らない。
 一体、何が起こっているのか?
 頭の中をボーリングの球がぐるぐると回転しているようだ。
 玉は円の軌道を描いて、ごろごろと自分の頭の中を転がっている。
 ぐるぐる回る。ごろごろ転がる。音をたてて俺の頭を。
 ううっ、不思議な気分だ。空が全部裏返っちまったようだ。
 雷が上に向かって伸び、草が空から降ってきやがる。雨みてえに。
 ここはどこだ?まさかカリブじゃないよな。まさかネパールか?
 ああっ、なんて気分だ。…変な気分だ。でも、なんだか。
 コカインをふがふがやるよりも、こいつは、気持ちがいい。
 うん、いいぞ。ふがふがするより。いい、いいぞ。ふがふが。 


 ザック・リンソンは故郷のニュージャージーでは無敵だった。
 彼と闘うと骨の一本や二本じゃすまされないとしてあの地では怖れられていた。そのパンチは頭を首からスッ飛ばし、そのキックは体を高く舞わせると。肉を二枚重ねにしたような太い腕には髑髏のタトゥーが彫られている。髑髏の横には「There’s Madman Around(ここに狂人がいるぞ)」とコミック調の吹き出しが添えられていた。
 舞ったのはザック・リンソンだった。
 強烈な一撃を顔面に受け、巨体が舞い、重力に逆らうことなく地面に落下した。
 リンソンの意識は既にネパールまで吹っ飛び、ここに残った巨大な肉塊は泡を吹き、上の空で意味の通じない言葉をぶつぶつと呟いている。
 彼は敗北した。

 ザック・リンソンはトゥーマッチタウンに落ち着いてもう3ヶ月にもなり、幾度と無くこの町でも勝利を手にしてきたのだが、どうやらこの90日間の対戦相手はただ相手が自分より弱かっただけ、だったようだった。この町には数百人のファイターが散在しているという。今までは、その中でも自分より弱い連中だけが当たったにすぎなかったのだ。ニュージャージーで名を馳せたザック・リンソンはトゥーマッチタウンの地面にはじめて横になった。
 タバコの灰、ビールの破片、道路に染みついた悪臭。
 何も恥じることはない。この町に“無敗”は存在しないのだから。
 ここでは敗北からが始まりだ。ザック・リンソンもまた再び立ち上がるだろう。
 ウェルカム・トゥ・トゥーマッチタウン。町は喜んでザック・リンソンを歓迎します。

 歓声があがり、ブルドッグ・ジョーは構えを解いた。
 ザック・リンソンも大きな体つきだったが、こちらはもっとずっしりとした重量を持っていた。黄色い丸眼鏡と顔の下半分がしゃくれているというその滑稽な風貌は相変わらず、その強さはファイターとして申し分ないほど強かった。
 肥満ともとれる大柄な肉体を揺さぶりながら、今回の試合を持ちかけた胴元のところへ歩いていく。
 「見事だ、ブルドッグ」
 白髪の老人が頷きながらジョーの大きな手を握った。
 「今日も稼がせてもらったよ」
 「金だ」
 「分かってる、分かってる」
 老人は懐から数枚の紙幣を取り出し、ジョーに手渡した。
 「550ドル。50ドルはおまけだ。私も楽しませてもらったからな」
 「受け取ろう」
 観客の何人かが先ほど自分たちの前で素晴らしい試合を見せてくれたジョーに近づき、握手を求めた。中には猟奇殺人事件の件で入ってきたと思われるリポーター風の男もいた。たくさんの歓声、たくさんの応援。たくさんの注目。そのどれもが、ブルドッグ・ジョーには無意味だった。たしかにトゥーマッチタウンにはそういったものを快感として闘っている連中も多い。この町へやって来る元プロ(あるいは現役)のほとんどが、既に失われた歓声を取り戻すためにやって来る。あいつらにとっちゃ、歓声が一つのヤクになっちまってるんだ。一度吸ったら最後、もう止められない。ジョーはこの町に生まれ、この町で育ってきたから、そういったことは周りの空気と同じだった。無いも同じ。酸素が無くなるといって心配する人間はいまい。むしろこの見える酸素、触れる酸素は、ジョーにとって邪魔な存在でしかなかった。ブルドッグ・ジョーは彼らに一切の応対をすることなくその場を去った。
 
 「ジョー」
 彼の目の前に一人の長身の男が立ちはだかった。
 金髪を肩まで伸ばし、顎にはうっすらと無精髭が生え始めている。ゲイリー・カジノブの親友だった男、アート・コーポランドだ。彼の周りには数人の男たちが取り巻いていた。中にはゲイリーの死を伝えたダニエル・ヒューズも混じっている。
 どいつもこいつも、殴ったことのある顔ばかりだった。トゥーマッチファイターズ。ジョーと比べて実力は劣るが、なかなかの顔ぶれである。
 ブルドッグ・ジョーは表情を変えることもなく、無愛想に彼らの元へと歩いていった。
 「なかなか楽しめたな!さすがはトゥーマッチタウンだ。あれほどの試合を拝めただけでも、ここに来た甲斐があるってもんだぜ」
 ドンキホーテは試合が終わってもまだ興奮醒めやらぬといった様子で、両手を叩きながら、ストリートを闊歩していた。脇にはシスターKJが俯きながら付き添っている。
 構わずドンキホーテは続けた。
 「特にあの勝った方、太っちょの奴だよ、顔が豚か犬みてえな顔してた奴。ジョーって言ったか?あいつは良かった。表に出てくりゃ間違いなくどこぞのチャンプからベルトを剥ぎ取ってこれるぜ。なあ、KJ、最後のパンチは見たか?ニュージャージーのなんとかって野郎を吹っ飛ばした最後のパンチだよ。芸術的だったな、あれは。喰らったほうはあの一瞬、長ぇ一瞬だが、とんでもなく気持ちよかったはずだぜ。ドラッグやアルコールじゃ得られねえ快楽さ。生きながらにして天国を味わえる。ま、目覚めて何日かは地獄だろうけどな。ハハハッ」
 「ドンキホーテ」
 「ん?見てなかったのか?最後のパンチ。そいつは損したなあ」
 「そうじゃない。ここに来たのは観戦のためじゃないだろ」
 「ハハハハ、そのことか。まあ落ち着けよ。そのうちゴーストを間近で拝見させてやるよ」
 ドンキホーテとKJは並びながら、レッズストリートを歩いていく。
 そこは第二の犠牲者、ミスター・マガウンが殺された場所だ。
 「それで、あの事件の犯人がその幽霊だっていうの?」
 ドンキホーテは懐から葉巻を取り出し、火をつけた。灰色の煙が彼の口から吐き出される。彼は頷き、くつくつと笑った。
 「恐らくな」
 「本気なんだね」
 「ゴーストかどうかはともかく、相手は人間の域を超えてるってことはお前だって理解できるだろ?力技で心臓を抉り出し、胸に縫いぐるみを押し込むような奴だぜ。生きてる連中の誰かだとしても、そいつはもう俺たちの世界の住民じゃない。化け物さ」
 現場に死体は無かったが、所々にマグワンのものと思われる血痕が見受けられる。
 「トゥーマッチタウン・ゴーストは、空を飛び、車で轢かれても死なず、姿を消せるという。こんな奴がもしこの町に実在するとすれば、俺はすぐにそいつを第一容疑者に指名するがね。KJ、俺は間違ってるか?」
 「さあね。この町に行くって時から、あんたの話は理解の範疇を超えてる。私はただ付いていくだけだ。あんたが何を論じても、それは変わらない」
 ドンキホーテは機嫌良く大笑し、KJの肩を叩いた。
 「そうさ、お前は付いてくればいい。頼りにしてるんだからよ、相棒」
 「それで手がかりは?」
 「その点は問題ない。俺の力はアメリカ全土に及んでる」
 「けっきょく使うんだ、例の力」
 「ビンゴだ。俺はホームズになんか憧れちゃいねえよ。ただ見たいだけだからな、トゥーマッチタウン・ゴーストを」
 そして、彼は携帯電話を取り出し、耳に当てた。
 「まずは情報だ。こいつは頼りになるぜ」

 


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