『アンノウン・キング』
15
アート・コーポランドは倉庫入り口の段差に腰を下ろし、目の前の闘犬を観察していた。トゥーマッチタウンで最強とも噂されるこの闘犬、ブルドッグ・ジョーは、アートの数歩しか離れてない距離にあっても、決して目を合わせることがなかった。
彼は闘いの場以外で他人と交流することをあまり得意としていない。酒場に行っても一人で飲んでいたし、ストリートファイトでも金を受け取ると一人でどこかへ去る。常にどこか孤独の影を背負い、他のファイターたちから一歩置いていた。
アート・コーポランドは違う。
彼はジョーと同じくストリートファイトで生活費を稼ぐファイターであったが、彼は試合と試合後を区別した。彼は闘いも大事だったが、人との付き合いも大事にしていた。最も、流れてきた余所者に対しては、他の友人がそうであるように冷たく接していたが。
死んだ友人ゲイリー・カジノブもまたそうであった。彼は流れ者であったがこの町の連中によく馴染み、なにより酒場で仲間と飲む酒が好きだった。
しかし、目の前のこの闘犬はアートに呼ばれて近づいておきながら、一言も発しない。
それはアートを不安にさせた。
彼がこれから話そうという話は、個人ではなく全体の話だ。ブルドッグ・ジョーが果たして、この輪に入ってこれるのかどうか。拒否するのか、どうか。
アートの目前に立ち、ブルドッグ・ジョーただ遠くをじっと見つめていた。まるで「待て」と命じられた犬のようだ、とアートは思った。彼はブルドッグと呼ばれているから、そう捨てた例えでもない。
「ブルドッグ・ジョー」
アートが呼んだ。その名はこの男に相応しい響きだった。その名を口にすると、犬がこちらに飛びかかってきそうな。
「話がある」
ジョーは顔をアートに向け、言葉を発した。重々しくも荘厳な響き。トロンボーンのような声。
「何の話だい?アート・コーポランド。お前が俺を呼ぶとは珍しいこともあるじゃねえか」
「重要な話なんだよ」
脂ぎった金髪を撫でながら、アートは深刻な顔つきで言った。
「先に言っておくが、選択権はお前にある。俺はお前にこの提案を強要しない。まずはこの点を理解しろ。ここは自由の国だからな」
「ふん」
ジョーは鼻で笑い、再び目を逸らした。
アートはこれをジョーの肯定の反応と見受けると、言葉を続けた。
「いま対戦した相手は誰だ?」
「……さあな。よく知らん奴だ。なんとか、リンソロー、だったか」
「ザック・リンソンだよ、馬鹿野郎」
隣で見守っていたダニエル・ヒューズが口を挟んだ。
例の滑稽な犬顔でジョーがダニエルの顔を見据える。殺気の類は感じられなかった。
「そいつだ、詳しいじゃないか。ダニエル・ヒューズ」
「対戦相手の名前くらい覚えてろ」
「言うじゃねえか。だが、そういうお前は何度闘ったことがあるんだ?一体何度人間の顔を、腹をぶん殴ったことがあるんだ?俺たちはな、対戦相手の名前なんざ、多すぎていちいち覚えられねえんだよ」
ジョーの声が一定の声量を保って吐き出された。厳しい口調ではあったが、声は落ち着いていた。落ち着き。ブルドッグ・ジョーの存在はずっしりと落ち着いた巨岩のような迫力があった。
彼は知っていた。ダニエル・ヒューズはこの町で生まれ育ったネイティヴの住民の一人だが、ストリートファイターとしての経歴はまだまだ浅い。戦績もたかが知れているはずだ。
ダニエルは恥をかかされたと思ったのか、ジョーに飛びかかろうとしたが、アートがこれを制した。
「ザック・リンソン…聞かない名前だな。新人(ルーキー)か」
「ああ。3ヶ月無敗、そう言ってたぜ。ここでの3ヶ月かどんなに短いか知らねえんだ」
「お前はもうここに来て長いよな」
「アート・コーポランド。俺はお前を昔から知ってる」
アートは頷いた。ますます真剣な目つきになっている。
「そうだな。お前はこの町で生まれ、育ち、闘ってきた。そうだ。俺もお前のことは昔から知ってる」
「言いてえことはなんだ?昔話に花を咲かそうってわけでもねえだろ。元々、俺たちは思い出を共有するほど親しかねえんだから」
「俺も含めて、ここにいる連中全員が、この町が気に入ってる」
「うん?」
「ゲイリー・カジノブもこの町が好きだった。俺はよくあいつと飲んでたから、それは確かだ。この町が、俺たちにとってどういう場所か分かるだろ。理想郷さ。目的の国。約束の地。学の無い俺たちでも、この町が親ほど尊いものだってことは分かる。いや、最近分かってきたというべきか。ゲイリーの奴が死んでからだ。この町で死は日常的だったはずなのに、あのゲイリーの死が俺たちを変えた。変えやがった」
アート・コーポランドの目に炎が宿ったかのように、彼は声を荒らげた。
ブルドッグ・ジョーは相変わらず落ち着いている。
「お前も犯人の噂は聞いてるだろう?もうだいぶ有名になったからな。どうも俺たちと同じストリートファイターらしいって話だ。馬鹿な話だが、もともと馬鹿な俺たちは、それを真っ当に受け止めてる」
少し間をおき、アートは言った。
「ブルドッグ・ジョー。犯人探しに協力してほしい」
「ハッ」
ジョーは言葉を聞くなり、一笑した。笑いかどうかも疑わしい小さな吐息のようなものではあったが、少なくともそれはアートを馬鹿にしてることは分かった。
隣でダニエルがまた突っかかろうとし、他の連中に抑えられている。
アート・コーポランドは動じない。こういう対応は予め予想していた。元々ブルドッグ・ジョーは犬のくせに頭のいい奴だ。
だが、切り札はあるぞ、ジョー。
「俺がなんであんたらと連(つる)まないか分かるか?こんなつまらん話の巻き添えを食らわんためさ。ふざけたショーだぜ、まったく。俺は今後も一人で行くぜ。選択権は俺にある。ここは自由の国、だろ?」
闘犬は多弁になっていた。言葉が次々と吐き出されていく。
「ジョー。ゲイリーは…」
「見渡してみれば錚々たるメンバーだが、よくもこんな話に乗ったもんだな。サム・ブレンナー、グレン・タイソン、ニコライ・フィクトナー。おい、そこの隅の奴はキックのジェリコ・コーツじゃなかったか?どいつもこいつも一度は殴ったことはある顔だ。一体お前らみたいに才能のある連中が、集まって何をしてやがるんだ?」
「ジョー」
「聞け、アート・コーポランド。こいつはお前の手に負える事件じゃない」
「お前なら手に負えるのか?」
「何だって?」
アート・コーポランドは再び落ち着きを取り戻し、言った。
しめた、と思った。やはり切り札はとっておきべきだ。
「ジェリコ・コーツがゲイリーの死んだ場所をうろつくお前を見てる。断っておくが、深夜の話だぜ、こいつは」
ブルドッグ・ジョーは頭を掻き、黄色の丸眼鏡をくいと上げた。
闘犬が、狼狽えている。なかなかいい光景だ、とアートは思った。
「言ったろ。“俺は一人で行く”。干渉はお断りだぜ」
「お前もゲイリーをぶっ殺した野郎を捕まえたいんだろ?いや、違うな。殴りたい、この言葉がこの町で一番合ってる。俺たちだって殴りたい。腹にかまして、尻を蹴っとばして、顔を滅茶苦茶にしてやりたい。だからこその協力だ、ブルドッグ・ジョー。一人でやりたきゃやればいい。こいつは情報提供を円滑にする、そういった類の同盟だ。お前の意志を曲げるようなことはしない。どうだ?協力してみる気はないか?」
「……どうかな」
「まだ話には続きがあるぜ。お前、ロイ・モンスターアームズ・ベーカリーを知ってるか?」
知っている。格闘技を志す者としては一度は聞くビッグネームの一つだろう。ただ最近は試合場に滅多に姿を現さなくなり、活動が知られていないが。
「そいつが、この町に入ってきてるらしい。理由は何だと思う?」
ジョーはすぐに察した。
「手柄だろうな。落ち目のボクサーが犯人を捕まえて再び名声を得ようって魂胆だろうぜ」
アートは頷いた。
「彼だけじゃない。マスコミに混じって、明らかな闘技者たちがこの町に入ってきてる。事件前とは比べものにならないペースでだ。ジョー、さっき話した同盟は置いといても、こいつは放っておけない話だぜ。聞こえねえか?あいつらの声がよ。俺にはこう聞こえる。『トゥマッチファイターってのは自分で尻ぬぐいもできないのか?』ってな。自分の糞くらい自分らで拭きてえもんじゃないか?ブルドッグ・ジョー」
少し間を置いて、アートは言った。
「団結の時だ。俺が言ってもかっこつかないけどよ」
ブルドッグ・ジョーは大きな溜息をつき、彼らに背を向けて歩き出した。
「ジョー、お前の強さや頭のキレは認めてる。力を貸してほしい。ゲイリーの仇を討ちたくはないのか」
アートの言葉は届かず、重い肉体が揺られて南を目指していく。
「くだらんぜ」
「ジョー」
ブルドッグ・ジョーの胸の内に奇妙な炎が灯っていた。
その炎は風に揺らぐこともなく、上に向かって昇ることもなく、熱くもない、ただ同じ場所でぐらぐらと照っている、オレンジ色の炎だった。
団結。
ジョーはその言葉に対して、何の感動も得なかった。それは確かだ。これまで一人で生き抜いてきた野良犬のような男にとって、今さらその言葉を聞いたところで、何の意味ももたらさなかった。問題はアート・コーポランドのあの目と、自分の発言であった。
アートのあの目は闘っている時の俺の目だ、と思った。闘いの最中に自分の目を見ることなど出来るはずもないのだが、直感でそう感じた。
そして、自分のあの行動。奴らの名前を次々に吐き出していた。間歇泉の如く。覚えているという感覚は無かったのに。ザック・リンソンの名前が出てこなかったのは本当だ。事実、彼は対戦相手の名前をまともに覚えることはなかったし、覚えようともしなかった。
だが、サムにグレンにニコライにジェリコだって?
アート・コーポランドは幼い頃から名前と顔を知っているし、お互いに話すことはなくても酒場の席で一緒になることがよくあったから、知っている。その傍らにいつも引っ付いてるダニエル・ヒューズについても同じことがいえよう。
しかし、サム・ブレンナーだと?グレン・タイソン?誰だそいつは。
彼自身、フルネームでその名が口に出された時は驚愕した。無意識。オーストリアの哲学者フロイトが、不快に感じる記憶や欲求を閉じこめるための地下室が精神の内部に存在すると指摘したことをこの町でもインテリな部類に入るブルドッグ・ジョーは知っている。
彼は孤独だった。だがそれは集団を不快に感じての結果だったのか。それは本来、欲求だったのか?
ブルドッグ・ジョーは舌打ちし、イラついた。太陽に雲がかかり、影が降りた。
「団結、だと?」
闘技者ってのはなんておかしな連中だ、と彼は思った。
彼の足は向かうべきところへ向かっていた。
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