『アンノウン・キング』
16
「4日だけだぞ、グレッグ」
タクシーから降り、ハリーは言った。反対側のドアからグレッグが、前の座席からシンシアが降りる。
「それ以上長くなるのはごめんだ」
「勝手にしろよ」
タクシーのエンジンが唸り、やがて見えなくなった。正午をまわったころ、どんよりとした空が町に落ちている。彼らはトゥーマッチタウンにいた。
「しかし、期待しちゃいたが、どういう理由でここに来る気になったんだ?」
グレッグがシンシアの荷物を受取りながら、ハリーに言った。ハリーは首を振って答えた。
「さあな、俺にもよく分からない。一応、市民の安全を守るのが保安官の仕事ってのもあるんだろうが。言っとくが、こいつは業務外だぜ。貴重な休暇をお前の捧げてるようなもんだ。こいつは貸しだな、グレッグ」
「ハハハッ!まったく、保安官の鏡でいらっしゃるぜ」
「しかし、ちょうどいまタクシーを降りてみて、考えを改めかけたところさ。やっぱり来なきゃ良かったかな?こんなに殺伐とした、掃き溜めみたいな場所に?いや、こんなことは言うべきじゃなかったな、謝るよシンシア」
「いいの。実際、ここはそういう町よ」
シンシアは言うと、通りの向こうを指さした。
「ほら、やってる」
見ると、100メートルほど離れたところで人集りが出来ている。中年の男達が大半で、誰一人例外なく手に紙幣を握りしめて叫んでいた。
「ヒュゥ!さすがはトゥーマッチタウン。“闘い”に関しちゃ事欠くことはねえな」
そう言い、グレッグはハリーの背をドンと叩いた。
「そうだ。お前、ストリートでやるなんざ久しぶりだろ?せっかくだからここで復帰戦といこうじゃねえか」
「人が悪いぜ、グレッグ。よりによってここでか?ニューヨークでウォーミングアップしておくべきだったかな」
「スーパースターの復帰戦ってのは、そう甘くねえ相手と組まれるもんさ。ハハ!」
グレッグは笑った。
男は鼻が曲がっていた。
コッツウォルズの丘のように盛り上がった大きな鼻が、中腹あたりから明らかに妙な方向を向いている。グレン・タイソンはアート・コーポランドがそうであるようにこの町が好きだった。だから彼はアートの誘いを二つ返事で受け、彼の言う『同盟』に参加することとなった。その同盟は二つの目的の下に成り立っている、とアートは言った。曰く、『殺人事件に関連した情報提供』と『余所格闘家の排除』。彼はゲイリー・カジノブと同じく数年前にこの町を訪れた元々流れ者の格闘家だったが、戦いを重ねていくうちにアートやゲイリーと親しくなり、トゥーマッチファイターとしての自覚が芽生えた。(あとでアートから聞いた話ではこの町の戦士として認知されるまでには、半年から1年かけて、勝利と敗北を経験しなくてはならないそうだ。それまではこの町を余所者として孤独に徘徊することになっている。実際、グレンも以前はそうだった)
彼はいま、この町を守りたいと思っている。
ブルドッグ・ジョーとの接触後、アートは少し笑みをこぼして「あいつはもう仲間だ」と言った。グレンにその意味はよく分からなかった。確かに、あの男が自分の名前をフルネームで呼んだときには驚いた。彼とは何度か闘ったことがあったが、接触は只でさえ少ないアートと比べて全くと言っていいほど無い。何より、闘った時でさえ、グレンはジョーの印象に残るような闘いをしていなかったから、(全てK.O、3分ともった試しがない)おそらく自分のことは記憶の片隅も置いていないだろうと思っていた。
だが、ジョーは覚えていた。
グレン・タイソンは曲がった鼻を一撫でし、いつもの場所を訪れた。知り合いのトロボウスキーがメモを片手に観衆に応対していた。その手は休むことなく、ペンをメモの上に滑らせ、またポケットから金を取り出しては渡していく。トロボウスキーはグレンに気づき、ペンを胸ポケットに入れると手を振った。既に60を超えているこの老いたロシア人は冷戦が終わる前からこの町に住んでいる町の有名人だった。彼が仕切るトゥーマッチタウンのマッチメイク数は一日に二桁に登り、この町の闘士たちの多くが彼を通じて賭け試合に臨んでいる。
「よう、グレン!」
老人は年齢をまったく感じさせない快活な声で叫んだ。
「ちょうどいま前の試合が終わったところだ。今日もやってくのかい?」
「そうだな。相手がいるならやらせてもらおう。それで、何か情報は得られたか?」
「うんうん、いや、まったく。どいつもこいつも俺が知ってることしか喋らない。やっぱりダメだよ、あいつらじゃ。警察に直接聞いたほうが早いんじゃないのか?世間に公表してない情報もあるって話だし。それか腕利きの情報屋に当たってみるとかな。いい情報屋を紹介しようか?本物のスパイだった奴なんだけどな」
グレンは首を振った。
「ダメだ。金が無い。それに俺は小汚ねえロシア人は信用しないタチなんだ」
トロボウスキーは笑った。シワだらけの顔がさらにくしゃくしゃになる。
「アッハハハ。まあ俺はあんたらの味方だよ。期待しねえで待っときな」
「さて、俺の相手はどいつだい?
「いや、誘っといて何だが、相手は今のところいなくてな。三日前ならこの時間に彷徨くデイヴィッドがいたんだが。あのポラック!お前に負けたのを最後にこの町から逃げだしちまった!まだここに来て1ヶ月と経ってねえはずだろ。意気地の無ェ野郎だよ、まったく!」
「おい、爺さん」
ふとトロボウスキーの肩を叩くものがあった。振り返ると黒シャツ、黒ズボンの長身の男が立っていた。
「なんだい?金ならいま渡すから、ちょっとそこで待っててくれよ」
「いや、違うんだ。俺は参加希望なんだが。ここじゃ何か手続きとかいるのかい?」
トロボウスキーは男の顔を見上げた。知らない顔だ。百を超えるこの町の戦士たちだが、トロボウスキーはその全てを把握している。
「知らん顔だな。新人か」
「ああ。さっき到着ばかりなんだ」
「ほう」
新人、の言葉にグレンが立ち上がった。
「俺の相手か?」
既に興奮状態にあった。目の前のこの痩せた男は今この町に来たという。理由は何だ?ただの享楽?違うな。「自分のケツくらい自分で拭けねえのか?」目の前の男はそう言っているのだ。そうに違いない。
「俺の相手になるのか?」
トロボウスキーに、彼は繰り返した。
老いたロシア人は困惑していた。メモを取りだし、パラパラとページを捲っている。
「やらせてもいいが、いきなりお前の相手というわけにもいかんだろう。真っ当な賭けになるかどうか。見たところ、お前さん、ちょっと痩せているようだし。対するこっちは元ヘヴィ級ボクシングのランカー。グレン、ウェイトはそのまんまなんだろ?」
グレンの目はすでに男に向けられている。獣性を剥き出しにした凶暴な目つきだった。
「関係ないな。ここじゃそういった要素は役に立たないはずだぜ」
「ファイトには関係だろうが、賭けには関係大ありなんだよ、グレン。戦績を持たねえ新人にはせめてものデータが必要だ。あるいは嘘でもいいから故郷での逸話とか。お前さん、そういうのあるかい?」
「分からねえ爺さんだな」
黒シャツの男の後ろから、もう一人男が現れた。こちらはガッチリした肉付きをしており、グレン・タイソンと大差のない恵まれた体格をしていた。トロボウスキーは首を傾げた。
「お前はどこかで会ってるな。少し前か?久しく会ってないように思うが」
「さあな。だが、俺はここを経験してるから、新人じゃねえ」
大柄なその黒人は禿げた頭を撫でながら笑った。その笑い声がトロボウスキーの脳の深い部分に滑り込んでいった。見事な逆三角形だ。腕は魔法瓶のように太い。何より、あの顎。打たれるためにあるような顎。まるでタフネスを凝縮したような。
「グレッグ・バクスター!」
ロシア人は叫んだ。
「ゲイリーを倒した、ニューヨークのファイターだろう?思い出したぞ。あのファイトはおれが仕切ったんだ。目の前で俺も見た。素晴らしい闘いぶりだった。そして、儲けさせてもらった!グレッグ・バクスター!また会えて嬉しい!」
グレン・タイソンは不満そうな顔でグレッグと呼ばれた男を見つめていた。
ゲイリー・カジノブを倒した、だと?この男が?
話はゲイリー本人からも聞いていた。ニューヨークのストリートファイター“負け知らず”。
「お前がグレッグか」
「ああ。どうもそうらしいぜ。母親が俺にトミーって名前をつけてなければ」
「本物なんだな」
「彼は本物」
また一人、人が増えた。次は女性だった。この顔はグレン・タイソンも知っている。
「シンシア・スミス、どういうことだ?」
「私がこの町に招待したの」
「ほう。理由はだいたい察しはつくがな」
グレンはグレッグの元へ近づき、胸ぐらを掴んだ。
「トロボウスキー、準備を始めろ。こいつと俺なら賭けも成立するだろう?」
「おいおい。待ってくれよ」
グレッグは彼に掴まったまま、隣のハリーの肩を叩いた。
「あんたとやるのはこいつだよ。俺はセコンド。というよりは観客かな?」
「黙れ、ここは俺たちの町だ。余所者に勝手をさせる権利は与えてねえんだよ」
「そう、ここは“おれ”がルールだ。グレン・タイソン」
二人の間にトロボウスキーが割って入った。
「面白そうじゃないか。殺人鬼よりも早くゲイリーを倒した男、グレッグ・バクスターが推薦する、ノッポの黒シャツファイター…ええと、名前は?」
「ハリー・ノーラン。H、A,R、R、Y」
「ハリー・ノーラン。対するはトゥーマッチタウンの撲殺王グレン・タイソン。話題性に富んでるじゃないか。ノーラン君の肩書きも十分彩りが生まれた。賭けは成立する」
「トロボウスキー、俺をなめてるのか?」
グレンは不服だった。グレッグ・バクスターを目の前にしておきながら、ジョーやアートには劣るとはいえこの町で順当な戦績を上げている自分が対戦させてもらえないとは。
「なめちゃいないさ、グレン。ただメインを第一戦目にもってくるような馬鹿なプロデューサーはいないだろ?」
「やらせるんだ」
「わかった。お前がこのノッポに勝てたら、少し休憩入れて、すぐにグレッグと対戦させてやる」
「いまここでやってもいいんだぜ?賭け抜きでだ」
グレンが一歩前に出た。空気が張りつめる。
やる気だ、とグレッグは感じた。
こいつは間違いなく本気で向かってくるぞ。
「“おれ”がルールだ。グレン」
空気を変えるようにトロボウスキーの声が響いた。
「お前はさっさと定位置についてこのノッポの坊やとやるんだよ。いまここでやろうもんなら、お前との取引は一切無しだ。ここで戦えなくなることがどういうことかどういうことか分かってんだろうな?いっそ引退して、マクドナルドで余生を送るか?それで満足するか?ドナルドはそんなに強くねえって話だぜ!?グレン・タイソン!」
トロボウスキーの気迫にグレンは怯んだ。
“この町で戦えなくなる”。その言葉がどんなに恐ろしいか。
「格闘家ってのは難儀な奴だな。さて、グレッグ。いまの話は聞いてたね。こいつがお前さんのお友達に勝てたら、あんたにも闘ってもらう」
グレッグは口笛を吹き、応えた。
「いいぜ。俺の友達に勝てたらな」
「よし、決まりだ。準備するから、待っててくれ」
トロボウスキーは再び、人混みの中へ入っていった。
「休憩無しだ」
グレンも人混み目指して歩いていく。
「そのヒョロい奴をぶっ倒したら、休憩無しですぐにお前だぜ。グレッグ」
「楽しみにしておくよ。グレン」
グレッグは笑い、グレンを見送った。少し先ではトロボウスキーが両手を上げたり下げたりしている。
「ノッポの次はヒョロか。第一印象は『好きになれそうにない』だな。この町は」
ハリーは腕を捲りながら呟いた。両脇にはグレッグとシンシアが見守っている。
「大丈夫?グレンはゲイリーの友達でもかなり強いほうよ」
「ん。問題ないよ。見た感じの印象ではそうでもなさそうだ。ウォーミングアップにはもってこい。いい相手に恵まれたよ」
シンシアは目を丸くしてハリーの言葉を聞いていた。
グレン・タイソンを目の前にして「そうでもない」とは。いったい何人の新人が、グレンを前にしてこんな台詞を吐けただろう。
「てめェがあの野郎に遅れをとるようでありゃあ、俺はニューヨークに戻ってハーヴェイの奴と組み直すぜ」
「あのハーヴェイと?そいつは責任重大だな。そんなことになれば馬鹿二人に挟まれて、シンシアがあまりに気の毒だ」
ハリーは屈伸、柔軟、一通りの準備運動を済ませ、グレッグに言った。
「さて、グレッグ。1分以内か、1発で終わらせるか。どっちがいい?」
「両方だ」
「オーケイ。チャレンジしてみよう」
シンシアは気づきはじめていた。
自分はとんでもない男達を連れてきてしまったのだ。
そう、一人はゲイリーを倒した男。もう一人はその男の認める男。
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