『アンノウン・キング』

17


 グレンとハリーの周りを観衆が囲んでいる。リングは無かったが、この観衆の輪こそ彼らのリングだった。広さはボクシングで使われるそれとたいして変わりがなかった。ただボクシングやプロレスと違うのは床はセメントということだ。この床は弾力で倒れる彼らを優しく包んではくれず、それどころかまったく口を聞かない頑固者のように無反応を決め込んでいる。少しの衝撃が吸収されないということは場に立つファイターたちにとって脅威ともいえた。ロープに電流を流すことよりも、あるいはマットに爆弾を仕込むことよりも、それは大きな危険を孕んでいた。セメント。痛みを包むどころか、そのまま身体に跳ね返す。打ち所が悪ければ死にも至るだろう。この無慈悲なマットに倒れるということがどんなことを意味するか、ファイターたちは知っている。
 痛い。それだけである。

 グレン・タイソンは典型的なボクシングスタイルだった。
 体を揺らしながら、両手を顎の辺りにあてている。
 相変わらず、グレンはハリーに対して強烈な敵意を持っていた。
 一つにはアート・コーポランドが提案した例の同盟によるところがある。
 「自分のケツも拭けないのか」
 目の前の男があの殺人犯を追ってやって来たのかは知らない。
 だがこの時期にやって来る余所者に対しては敵意を抱かずにはいられなかった。
 なぜだろう、と考えてみたが答えは出ない。
 おそらくは自分がトゥーマッチタウンが好きだから、その一点に尽きるという結論に達し、一人納得していた。
 とにかく憎い。
 もう一つにはハリーの背後にいる男、グレッグ・バクスターに起因していた。グレッグがゲイリー・カジノブを倒したことがあるという事実が、ゲイリー殺しの殺人犯とグレッグを半ば必然的にダブらせた。彼がグレッグと闘い、勝つことは妙な仇討ちになるだろう。グレンはグレッグと闘いたかった。
 その前には目の前のこの男、ハリー・ノーランを倒さねば。


 「ルールは素手のみで闘うという一点だけだ。判定は無い。K.Oか降参だけが勝利条件。いいね?」
 トロボウスキーが間に立ち、両者を向き合わせた。
 身長はハリーがやや高かった。ハリーがグレンを見下ろすように眺め、グレンが上目でハリーを睨め付けている。
 ハリーの表情は余裕だった。
 「開始!」
 合図がかかった。

 グレンの大腿部が伸び上がった。
 大股で踏み込み、棍棒のような拳を上げ気味に振るう。
 ごうっ、と音が鳴った。
 なるほど、強い、とハリーは見た。
 彼はスウェーバックでその拳を流すと、続いて今度は逆に自分が身を屈めて前へ進んだ。
 一瞬の出来事だった。グレン・タイソンの懐にハリーが入った。
 「ヒュゥ!」
 口笛が鳴り響いた。ハリーのものであった。
 グレンはもう片方の拳をハリーの頭部目がけて振り下ろした。
 グレンのパンチに合わせて、ハリーは中腰の姿勢で回転した。
 速い。
 流れるような動作でグレンの拳をまたしても流すと、その回転に合わせて自らも伸び上がった。
 ほぼ直角にハリーの黒い影が伸びた。
 一瞬、風を切る音がしたあと、観衆の耳にも聞こえるほど大きな炸裂音が響いた。
 グレンの両足は浮いていた。
 ハリー・ノーランの強烈な回し蹴りを顎に受け、グレンの体は宙に舞っていた。
 彼の体は地面を離れ、彼の意識は身体を離れていた。
 
 ハリーは体勢を戻し、グレンはしばしの滞空を味わったあと、“痛い”セメントに落下した。
 トロボウスキーと観衆、シンシアは呆気にとられ、なにも口にすることはできなかった。グレッグだけが試合前と変わらない様子で見ている。
 ハリー・ノーランは本当に1分以内に、1発でグレン・タイソンを倒してしまった。

 「何秒だ、グレッグ?」
 「俺の数えたところだと6秒。馬鹿かお前、もっと賭けを盛り上げてやれよ。ホントに瞬殺しちまいやがって」
 「悪い悪い。あんまりいいタイミングだったんで、つい、な。しかし、思ったより身体鈍ってないようだぜ。ブランクに関しちゃノー・プロブレムだ」
 「素晴らしい」
 やっと平静を取り戻したトロボウスキーが顔をしわくちゃにして寄ってきた。
 「さすがはグレッグの友達だ。すごい。すごいよ。これほどとは思わなかった。あんた、まだこの町にいるのかい?しばらく滞在するのかい?是非私にマッチメイクさせてくれ」
 「ありがたい話だが、断らせてもらうよ。ここへは観光みたいなもんで来てるんでね。しかし久しぶりにストリートの緊張感を味わうことができた。礼を言うよ」
 トロボウスキーは引き下がらず、何度も食い下がった。あまりの熱心さに「期待はしないこと」を条件に携帯の電話番号を教えてしまったが、ハリー・ノーランとグレッグ・バクスター、そしてシンシア・スミスはその場を後にした。 

 「あなたたちなら本当にゲイリーの仇を討てそうな気がしてきた」
 宿泊先のホテルへ向かう途中、シンシアが言った。
 「普段よりずっと調子が良かったな。幸先のいいスタートが切れたよ」
 ハリーは機嫌が良さそうに言った。グレッグがその横でやはり笑っている。
 「問題は犯人に出会えるか、どうか。それだけだな。簡単な聞き込みをはじめて、それから気になる場所を回ってみようか」

 


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