『アンノウン・キング』

27


 歯をぐっと食いしばり、彼は空を見上げた。
 彼の目の前に広がる丸天井は今夜も曇り空のカーテンがかかっていた。
 月のない陰鬱な夜。ゲイリーが死んでからというもの、この暗い天気が続いている。
 畜生。なんていやな天気だ。
 
 サム・ブレンナーは立ち上がった。
 驚くほど早いスピードだった。
 まるでいまのダウンは小石に躓いて転んだだけ、といったほどだった。
 公式の試合ならば、スリップダウンと勘違いしていたかもしれない。
 だがレフェリーはない。
 ここは何でもありのトゥーマッチタウンだった。
 体一つが唯一のルール。拳、蹴、投、極、噛みつき、何でもありがルール。
 そのルールで、何故俺が負け―――

 ―――?


 サムの目の前で地面がひっくり返った。
 まるで重力が逆転したかのように視界が揺れ、突然目の前に悪臭の染みついた地面が広がった。

 ――おいおい。何やってるんだ、サム、相手はたかがスポーツマンだろう?

 彼は倒れたまま、首を曲げて向こうを睨んだ。
 ロイ・ベーカリーはゆさゆさと体を揺らしながらステップを踏んでいた。
 ガードを上げたまま、サムが立つのを待っている。
 鼻血はたしかに流れていた。鼻も奇妙な方向へ曲がっている。
 肘は直撃したに違いなかった。だがまるでサムが突っかける前と同じような雰囲気だった。
 
 「おい」
 ロイの声が暗い夜の町に響いた。怒気を孕んでいた。
 「まさかここで終わるんじゃないよな?」
 ざっ、ざっ、と両足が地面に着く度に音が鳴った。
 「やり足らんぜ、俺は」
 サム・ブレンナーの両手に力が入り、平坦な地面を握り潰さんとするほどだった。
 だが、立てない。体が言うことを効かない。
 力を振り絞り、犬のように四つんばいになっても、すぐに地面にへばりついてしまう。
 それほどまでに“モンスター・アームズ”の威力は凄まじかった。
 たった一撃で全て吹っ飛ばしてちまった。畜生。早すぎる。

 俺の負けだ。
 
 見上げた空に、やはり月はなかった。




 「俺は“ストリートファイター殺し”じゃない」
 地面に横になったまま、サムは呟いた。
 小さな声だった。だがロイはしっかり聞いていた。
 「分かる」
 頷き、ロイ・ベーカリーは歩いていた先を見つめた。
 「お前に殺人は無理だ。犯人は素手で心臓を抉り抜けると聞いている」
 「くそ」
 サム・ブレンナーはそれきり黙り込み、ロイはその場を立ち去ろうとした。まっすぐと闇が虚空に伸びている。じめじめした空気が遠くに漂っている。
 「向こうだな」
 「…なぜ立てた?」
 「……それは俺を侮辱する発言か?」
 「違う。俺に勝ったボクサーはお前が初めてだからな。これは興味だ」
 ロイ・ベーカリーは鼻を摘んで、元の位置に戻した。めりっという音が再びし、それはサムを少しぞっとさせた。血はまだ流れていた。
 「聞くが、お前、“ケンカ”はしたことあるか?」
 サムは何も応えられなかった。答えは決まっていたはずだ。しかし、何故かロイを前にしてそれは躊躇われた。
 ロイ・ベーカリーは血を拭って、言った。
 「本当のケンカを、だよ」

 差別との闘い。それはルールの無いケンカだった。ルールが無いことが悲惨だった。あの目。あの色。あの言葉!殴れないものを相手にして彼はケンカをしてきたのだった。絶対に倒れることのない巨大な壁を相手に。ロイの力の源は怒りだった。体格もボクシング技術もそのオプションに過ぎない。

 「単純にてめぇとは踏んだ場数が違うんだ。それだけだ。お前のパンチなんざ、俺の本当の相手に比べれば蚊の一刺しと何ら変わりがねえ」
 そしてロイは歩み始めた。満たされることのなかった怒りを持って。
 サムの体は未だに自由が効かず、その背中を見送ることすらままならなかった。
 「畜生」
 勝てない。サムは唸った。

 


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