『アンノウン・キング』

30


 ニコライ・フォクトナーは決断した。
 もう逃げられない。
 俺はゲイリー・カジノブの仇を討つと誓った。
 そのためにトレーニングも積んだ。
 俺の親友、アートやサム、ジェリコも、このエリアのどこかで必死に犯人を追っているのだ。
 そして彼らは、犯人に出くわした時、迷わず拳を握り、闘うだろう。
 そうなのだ。俺たちはこの町のファイターなのだ。
 「面ァ貸せ!」
 そして、ニコライは歩き始めた。
 早足気味でずかずかと道の真ん中を歩いていく。
 両手の拳はしっかりと握られていた。
 殺されるかもしれないファイトに向かって、彼は歩いていた。 

 「近づいてくる」
 「ああ、こいつはやる気だな。俺たちを殺すつもりだぜ、あいつ」
 「あんたが余計なこと言うからだろ」
 「ハハッ、俺はお前と会った日のことを一人で呟いてみただけなんだが」
 ドンキホーテはKJの肩をどんと押した。
 大きな力に押されて、KJは道の脇へと無理矢理寄せられた。
 「お前はそこで隠れてみてな」
 「ボディガードは私だろ?」
 ドンキホーテは葉巻を吹かし、空に投げ捨てると、拳を打ちつけて笑った。
 「あっちは俺を殺す気で来てるんだ。その覚悟には俺が応えなくちゃあな」
 そして彼も動き始めた。真紅のスーツが夜の町に映えた。

 「“面ァ貸せ”だあ?」
 ニコライは立ち止まり、“ゲイリー殺し”を見上げた。
 血色のスーツに、あの笑み。
 ただ快楽への欲求だけで人を殺しているに違いない。血が、好きなのだ。
 でかい。サム・ブレンナーと同等かあるいはそれ以上か。
 いや、ニコライはすぐさまその考えを改めた。
 背丈ではない。もちろん背丈もずば抜けてでかいが、肝心なことはそこではない。もっと他の大きさがこの“ゲイリー殺し”にはある。
 カリスマ?いや、殺人犯がそんなものを持ってどうする?
 狂った殺気だ!違いない!ゲイリーはこいつに殺された!
 「ああ、少しの間だけ、俺にブッ叩かせてくれねえか。そのヒゲ面をよ」 
 “ゲイリー殺し”は笑みを浮かべ、唇が横に広がった。
 「バカヤロウ。“貸す”はてめェだ。はやく顔を突きだして、中腰になんな」
 ぞっ、と悪寒が走った。迫力だ。声だけで吹っ飛ばしてしまいそうな迫力。
 
 ――ニコライ・フォクトナーは心臓を捨てる覚悟を決めた。

 「おッ!」
 不思議なことに、怒りが彼を落ち着かせていた。
 はじめに繰り出したその攻撃は、彼が通常のストリートファイトで開始早々の定石として彼が繰り出すものと同じものだった。
 ローキック。
 鉄棒のように鍛え込まれた足撃がドンキホーテの足を叩いた。
 “斬る”よりも“落とす”ようにして放たれる重いローキック。
 並のファイターはこの一撃で移動の要を奪われる。彼はこの一撃に自信があった。
 だが、“ゲイリー殺し”は構わず、蹴られたほうの足で彼に近づいていた。
 ――効かない?
 いや、相手はゲイリーを殺したんだ。
 仲間内でも、あるいは町全体でも最も強いと評されるゲイリー・カジノブを。
 自分のローキック1つで動きが止まるようなタマじゃないことは分かってる。
 「ッしゃァ!」 
 続けざまにもう一度、ローを放つ。
 先ほど打った部分と同じ箇所を、的確に打ち抜いていく。
 確実に、確実にダメージを蓄積させていくことだ。
 それがゲイリーよりも実力が劣る俺にできる、最善の策だ。
 “ゲイリー殺し”は止まらない。依然として歩みを続ける。
 ――なんて歩みだ。
 後方へ跳躍しながら、ニコライは思った。
 先ほどの声にしてもそうだが、歩くこと1つにもとんでもない威圧感がある。
 ――殺される。嫌だ。
 離れたところで、もう一発ローキック。
 やはり効かない。あるいは効いていないふりをしているだけなのか。
 ――まだ死にたくない。
 近づいてくる。あいつが。ゲイリーの心臓を盗んだ男が。
 とにかく彼は蹴っては逃げ、蹴っては逃げを繰り返すしかなかった。
 確実にダメージを重ねていく。幸い、このリングにはロープがない。
 ――嫌だ。嫌だ。俺はまだ死にたくない。
 そうしなくては、勝ち目がない。
 ――そう思ってくれ。ジジイ。
 ニコライは再び間をおいた。
 わずかではあったが、彼の体勢に変化が生じていた。背を丸めて開手になった。
 そして同じように足を上げて、ローキックをいつでも撃てるように構える。
 「おっと」
 “ゲイリー殺し”の動きが止まった。 
 「やるじゃねえか」
 「分かるか」
 「ああ、迂闊に飛び込めねえな」
 ――バレている。
 
 ドンキホーテは、ヒット&アウェイを繰り返す目の前の男(名をつけるとすれば復讐者(リベンジャー)の、構えが微妙に変化したことに対して、動きを止めた。止めることが最良の判断であった。
 ――そのまま獲る気だろうが。
 あたかも逃げる回るように、つついては跳ね、つついては跳ね、自分がびびっていると思わせ、調子づいたこちらの攻撃に合わせて関節技か。
 ローキックが効かないと踏んで、事実まったく効いちゃいねえが、一撃必殺の破壊力を誇る十字固めってとこか?
 たしかに、関節だけは鍛えられねえからな。小さいナリで食えない野郎だ。
 呼吸さえ合えば、俺の体重も軽々と投げることが可能なのだろう。
 自信に満ちたあの目を見れば分かる。
 「オーケイ。お前の魂胆は分かった。下手な攻撃はしねえよ」
 
 ――ん?
 “ゲイリー殺し”は、「下手な攻撃はしない」と確かにそう言って、徐に拳を振りかぶった。
 ――冗談だろう?
 そこから予測される攻撃は単純なブローでしかなかった。
 「下手な攻撃はしない」と彼は言った。
 しかし、彼がこれからやろうとしていることは「下手」そのものではないのか。
 相手がどんなにラッシュに長けた男であっても、ニコライ・フォクトナーは間違いなく“獲れる”。
 彼がこの町に生まれ落ちてから、唯一まともに基礎から学んだのがサンボだった。
 多少の我流を交え、如何なる攻撃も“獲る”ことから“必殺”へつなげることができる。
 どんな人間も関節だけは鍛えられないのだ。
 ましてこんなシンプルなブロー、獲れないはずがなかった。
 だが、この決定的なチャンスを目の前にして、彼は迷っていた。
 それは突然、“ゲイリー殺し”が予想外の行動をとったからではない。
 ――殺しの技術?違う。何だ。
 ぐぐっ、と目の前で何かが歪んでいる。それは見えないものだ。
 一度感じたら、ぬぐい去るのに相当な時間がかかる、何かだ。
 その何かが、ニコライの気概を、
 ――心臓、ぶち抜かれ…
 
 ドンキホーテには分かっている。
 “こいつは獲れない”
 技術じゃないんだ。勝つために最も大事なことは技術じゃない。
 要は、“こいつ”なんだ。
 “こいつ”を全て放つことができれば、勝てる。
 彼は生死を賭けたサバイバルに身を置いてきたのだった。
 ブラジルの密林、中国の熱砂、果ては極寒の南極まで、彼はどんな場所でも生き抜いてきた。
 そこに“手加減”はあり得ない。“全て”だ。
 “全て”を解き放つことが勝利、すなわち生へつながることを、 
 ドンキホーテは知っている。
 技術じゃねえんだ。
 ――いくぜ。

 


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