『アンノウン・キング』
31
ニコライ・フォクトナーはいま本能で動いていた。
理性ではない。もはや考えている場合ではない。
生への執着だった。
彼の脳は空っぽになり、ただ肉体が彼の意志とは無関係に動いていた。
逃げた。
後で考えてみても、恥ずかしいくらい間抜けな逃げ様だった。
彼は臆病にも、半分相手背を向け、犬のように後退ったのであった。
風が唸った。
“ゲイリー殺し”は親友を殺したのであろうその拳で、彼の胸目がけて殴りかかっていた。
逃げなければ、あの拳が自分の胸に突き刺され、“抉り取られていた”かもしれない。
――なにを?畜生、決まってる。俺の心臓だ。
冷静さを取り戻し、彼は拳を握りしめた。
だがしかし力が入らない。
代わりに冷や汗が額を流れている。
先ほどまで寒さに凍えていた自分が、汗?
今や彼は風前の灯火であった。
このわずかな攻防の内に圧倒的な力の差を見せつけられ、闘志が萎えている。
――無理だ。
どんな技術を駆使しても、勝てない。
――すまん、ゲイリー、俺は、
“ゲイリー殺し”は走っていた。
こちらに向かってまっすぐに走ってくる。
――殺される。
――逃げられない。
ニコライ・フォクトナーを最後に救ったのは、狂気だった。
彼は胸の中でただひたすら叫んでいた。
彼は、彼を解放した。
「むう?」
撃ったのは拳だ。
最大限のボディブロー。手加減無し。
そして目標は先の攻撃に畏れをなし、なすすべもなく立ちすくんでいる。
悪いが、これで最後だ。
楽しませてもらったが、俺とお前のお遊びもこれでおしまい。
大丈夫。死にはしねえよ。
だがしかし、目の前の男が繰り出した不意の行動には、ドンキホーテもただ狼狽えるしかなかった。
――参った。こいつも“あそこ”にいやがる。
全体重を乗せたボディブロー。
彼の拳にはその全精力が宿っていたが、彼の両足には何も無かった。
ガラ空き状態だった。
目の前の男は、そこを突いていた。
気概は挫いたはずだ。適当な反応ができるはずがない。
“あそこ”なら出来る。
ドンキホーテがかつて立ち、アルコム・ライアンも経験したあの位置に、
スキンヘッドのこの小男は立っていれば。
生と死の境界。自分を全て吐き出せる場所。
――すげえな。
ドンキホーテの巨体が傾いた。
ニコライは屈んでいた。
何を思ったのかは知らない。何を考えたのかは分からない。
だがしかしニコライは屈み、その動作をすでに終えていた。
“ゲイリー殺し”の攻撃のタイミングに合わせて、屈み、両足を相手の足に滑り込ませていた。
“カニ挟み”と呼ばれるものだった。
片足を蟹の鋏のように挟み、彼は後方に倒れ込んだ。
勢いそのものを捕らえていたので、倒すのにはたいして力はいらなかった。
重いからこそ、倒れやすいという場合もある。
“ゲイリー殺し”は地面に仰向けになり、宙空を見上げていた。
一瞬!
このわずかな一瞬をニコライは逃さなかった。
ダウンそのものにダメージはないことを彼は知っている。
彼はすぐに相手の片足を捕まえ、脇で固定した。
アキレス腱固め。
極まった。
「ハハハハ!」
ドンキホーテは、笑っていた。
彼の片足は彼の手中にあるはずであった。
それもただ持たれているのではない。
彼の片足は即製の粉砕器にかけられている。
事実、痛かった。激痛。強烈な痛みが彼の全身を巡っていた。
詩に唄われるギリシャの英雄も、そこだけは鍛えられなかったのだ。
しかし、彼は、笑っていた。
彼は首を回すと、小道に隠れてKJがこちらを見ている。
別段心配している風には見えなかったが、
自分がやろうか、ということを手ぶりで知らせていた。
ドンキホーテは首を振った。問題の無いことだった。
「いいぜ」
彼は力ずくで身を起こした。
途方もない力技だった。
まず上半身を起こし、続いて握られていないほうの足で地面を蹴り、体を支える。
困惑する男の姿が見て取れた。すでに彼は男を見下ろす立場にあった。
「ボーイ……」
だがまだ、立つには至っていない。依然としてもう片方の足は激痛に苛まれていた。
「いいものを見させてもらったぜ。いや、感じさせてもらったというべきか」
ドンキホーテは上半身だけを起こしたまま、ゆっくりとした口調で言った。
「だが惜しいな。うん、実に惜しい」
ぎりぎりと腱が軋む。
「お前はお前を解放し、ベストを尽くしたが、しかし俺の高さには届かなかった。だがよ、最後の一発は誇りを持っていいんだぜ。最後の、というかこいつのことだが」
―――!
ニコライの体が吹き飛んでいた。
何が起こった?
彼はいま、“ゲイリー殺し”の足を抱えていたはずではなかったか?
大きな力が迫るのを感じ、気が付くと彼は舞っていた。
どうやったのかは分からない。だが、とにかく――
彼は地面に叩きつけられた。受け身をとることもできず、激痛が彼を襲った。
足音。
――あ。
“ゲイリー殺し”の影がぬっと彼に覆い被さり、
ニコライ・フォクトナーは敗北を悟った。
そしてドンキホーテは勝利した。
彼は会心の笑みを果敢な復讐者に捧げていた。
| 第32話に進む |
| 第30話に進む |
| 図書館に戻る |