『アンノウン・キング』
33
彼はもう5日間も髪を洗っていない。触らなくても分かるほどべとべとした髪の毛を肩まで伸ばしている。顔からは内に秘めた野性感が漂い、どことなく往年のミック・ジャガーを思わせた。アート・コーポランド。29歳。来月には30歳。父はテキサス。母はメイン。ダイアー・ストレイツをこよなく愛し、地元トゥーマッチタウンにおいてはゲイリーやジョーと並んでトップファイターとしてランクづけされる、通称『アート・ザ・スローター(屠殺人のアート)』。酒場では気のいい友人を気取っているが、(事実、彼は気前が良かった)いざストリートに立つと、本能が彼を駆り立てる。弱肉強食のこの町に最も適した性質。獣性。スタイルの荒々しさではグレン・タイソンやサム・ブレンナーを凌いで激しい。そのため彼の試合内容には目を覆う観客が多く、実力はあるがファイトに恵まれない、損をしてきたファイターであった。彼は何ひとつ『武術』を習ったことがない。人間が生んだ技巧的なテクニックを全て排し、訓練も何一つすることなく、目の前の相手をただ潰せと命じる獣性のみを頼りに勝ち残ってきた。撲、蹴、投、極、そのどれもが従来の格闘技の型にはまっていない。故に相手の予測できる範囲の外側からの攻撃を可能にし、事実その強さで何人もの格闘家を『屠殺』してきた。
グレッグはそのわずかな動きを逃さなかった。
何がくる?
ごう、と凄い音がして、僅かにグレッグの体が震動した。
それは躊躇うことなくして放たれたエルボーだった。
骨撃がグレッグの体をガードの上から揺さぶっていた。
続けざまに、強烈な衝撃がグレッグの右脛に炸裂した。
鞭のようにしなやかなローキック。
アート・コーポランドは止まらなかった。
“屠殺人”の名に恥じぬ、慈悲の欠片もない無情な連続攻撃。
ただ相手を死に、敗北に至らしめることだけが彼の仕事であるかのように。
美学も何も存在しない。
純粋な、格闘技をアートは身を以てぶつけていた。
強い。
彼の得意とする戦法は、まさにこの連続攻撃であった。
相手の反撃の機会すら与えず、まるで削岩機のように相手の体を彫り抜いていく。
その攻撃を、相手が動かなくなるまで続ける。
相手がただの肉塊になるまで。
グレッグ・バクスターはガードを固めたまま、しかし後退することはなく、僅かに微笑んでさえいた。
たしかに、口元が微かではあるが歪んでいる。
――アート・コーポランド!
体を回転させ、遠心力をつけた拳がアートの顔面に叩きつけられた。
鉄槌と呼ばれる固い骨の部分がアートのジャガー顔にめり込んでいた。
アート・コーポランドは後退した。顔を鼻血が滴っている。
「やるな、グレグ」
アートは不気味な笑いをグレッグに向かって投げつけていた。
しかしグレッグもまた、こちらは微かではあるが、笑っている。
「さっさと立ちな。たいして効いてねえはずさ」
グレッグが言った。
鼻血にまみれた口で、アートは答えた。
「ああ。問題ない」
そして、じっ、と片足を突きだし、再び突進の準備を整えた。
「…俺はこいつが好きだ」
「何?」
「ゲイリーはもう、こいつができねえんだよなあ」
ローキック。
迅(はや)い。
一瞬にして距離を縮めて、アートは下段蹴りを放っていた。
独学とは思えぬほど、綺麗な型だった。
まるでムエタイランカーが放つそれと同じように、鋭く、速く、的確にグレッグの脛に撃ち込まれている。
だが、グレッグは耐えた。やはり後退はしない。
激痛が襲っているはずであった。しかし、彼は後退しない。
「カッ!」
突然、グレッグは痰を切って左拳を放った。
握りしめられた褐色の砲弾が空気を貫いていた。
爆音でも響きそうな迫力ある攻撃がアートの左肩に直撃した。
――あと数分もすれば、
強烈な痛みの中で、アートは思っていた。
――俺か、あいつが、月面みてえに穴だらけになる。
「フン!」
アート・コーポランドも引かなかった。
そのまま腕を振り上げ、拳面をグレッグの鼻目がけて放った。
めち、と音がした。アートの右拳がどろどろした液体に濡れた。
だがその時、グレッグもまた動いていた。
左拳をぶち込んだ際に、右拳をアートの胸にそっとあてていたのであった。
それこそ“爆弾”だった。
その爆弾は着火のタイミングをコンマ数秒の世界で待っていたのだった。
アートの拳が彼の鼻を直撃するのと同時に、右拳が炸裂した。
拳がスクリューのように回転し、攻撃の要ともいえる関節が駆動していた。
発光こそしなかったが、拳が、爆発したように威力を放っていた。
“ワンインチ・パンチ”と言われる攻撃だった。
かのブルース・リーが編み出した超近距離で放たれる拳の“爆弾”。
神業に近い絶妙な関節の回転が、体術の成せる拳闘の奥義を発現していた。
“被弾”したアート・コーポランドは宙を舞っていた。
魔法の絨毯でもなったかのように、宙空で体を横にしながら飛んでいる。
内蔵のどこかに傷がついていないか、それが心配だった。
だが、アート・コーポランドは、グレッグの予想に反して、綺麗に受け身ととって着地していた。
明らかに相当量のダメージは見てとれたが、しかしアートは立っていた。
何か自然な感情が、彼をこのままで終わらせることはしなかった。
――すごい。
向かってくるグレッグを前にして、アートは思った。
――ゲイリーはこんな奴と闘ったのか。
褐色の戦車のような男が、鼻血にまみれた物凄い形相で向かってくる。
――いっそ、こいつがゲイリーを殺していてくれたらなあ。
グレッグは右ストレートを放った。
――遅い!
アートはグレッグの残った左手に注意を向けながら、体を横にして躱した。
呼吸がいささか不自然ではあったが、幸いにして内蔵がどこも破けていないようだった。
「ッシャァ!」
避けながらも彼の本能は、しっかりと攻撃の手を用意していた。
躱し際に彼は、膝を回し蹴り気味にグレッグの脇腹目がけて叩き込んでいた。
綺麗に、膝がめり込んでいた。
「ぬう」
予想外の攻撃にグレッグが揺らいだ。思わぬ痛手を受け、若干前のめりになる。
この好機を、アートは逃さなかった。
アートは猿のような叫声をあげて、拳の乱打を浴びせた。
胸から鼻にかけて、体の上部を次々に叩いていく。
血があちこちに飛び散った。
この闘いが終わったあと、目の前のグレッグはどんな顔になっているだろうかと、アートは想像した。
きっとボロボロに、ぐちゃぐちゃになっているに違いない。
――お前はこの町を甘く見すぎていた。
――着飾ってってばかりのニューヨーカーが、どうして生粋のケンカ師に勝てると思う?
瞬間、びゅん、と拳が空を切った。
アートは多少驚きはしたが、このことをしっかりと予測していた。
攻撃を撃ち込みながらも、グレッグのぐちゃぐちゃの顔を想像しながらも、彼は残された左拳をしっかりと捉えていた。
――危ない。調子づいて攻めたてたところにカウンターか。
――さしずめ「この町の連中なら引っかかる」とでも思っていたのだろう。
グレッグのカウンターは失敗に終わった。
しかし、アートもまたグレッグと距離を置いて、ちょっとした落胆を感じていた。
思ったほど、グレッグはダメージを負っているようには見えなかった。顔も、血こそ流れているが、それほど腫れ上がってはおらず、構えに至っては、わずかに息が上がっている他は(しかしこれも微妙な変化だった)対戦前とさほど変わっていない。不思議なほど、あれほど殴っておきながら彼はグレッグにダメージを与えてはいなかった。
グレッグ・バグスターは、血だらけの顔で笑っていた。
「うーむ、惜しいぜ」
子供のように無邪気な顔で言った。血だらけでその表情は、少し異様だった。
「あと、もう少しだったんだがなあ」
――なるほど。
アートは無意識の内に脇腹を撫でていた。
カウンターの左拳が狙っていた場所だった。
――恐ろしい男だ。ゲイリーも負けるはずだわな。
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