『アンノウン・キング』
34
アート・コーポランドは腰を屈めて、鋭い視線をグレッグに投げつけていた。
まるで虎のような男だった。
ハリーと闘ったグレン・タイソンのスタイルを見たときも思ったものだが、どうもこの町のファイターは、どいつもこいつも肉食獣を思わせる。喰うことに大きな重点を置く、本能で動くようなスタイルだ。恐らくは“何でもあり”の環境のなかで自然と生まれたスタイルであろう。テクニックやメンタルをあまり気に留めないため、プロの格闘家が彼らのような手合いと闘うことは非常に危険であるといえる。格闘家がプロとして君臨するための強さの1つとして“読み”がある。パターン化された相手の攻撃を闘いながら分析し、活路を見出す手段だ。プロとして試合の場に立つと、どうしてもエリアが限定されるため、実力の他に相手をよく見る目が勝つための重要な要素となる。本能で動く相手には、この目が通用しない。獣は、パターン化されていない。よほど実力が勝っていないと、如何に素人とはいえ、彼らのような獣にはまず勝ち目がないだろう。
しかし、グレッグは臆していなかった。
勝てる自身は大いにあった。
なるほど、アートは強い。
今まで闘ってきた連中と比較しても、かなり高い位置にランクインするんじゃないか?
だが奴は、俺には勝てない。
何故なら俺は、今もこれからも“負け知らず”で、お前と同じ、獣だからだ。
「シィィィィッ!」
グレッグは走った。
血まみれの顔でガードを上げながら、アートに向かって突進していく。
二人の距離が一気に縮まる。
グレッグは拳を放っていた。
次々に、相手に攻撃の機会を与えないように、攻撃の手を休めない。
アートはその攻撃を全てとは言わないまでも、その幾つかを捌いていく。
「カッ!」
一際重いボディブローが、アートの腹に埋まっていた。
今度こそ胃が破れたのではないか。恐ろしい衝撃がアートの内臓を走った。
「ぬうッ」
だが、アートはそれでも動いた。
腰を深く屈めると同時に、肘をロケットのように打ち上げる。
グレッグの顎が、跳ね上がっていた。
――シャッ!
もはや声にならない叫声を、アートは上げ、さらに攻撃を続けた。
そのまま相手の腹部目がけて、固く握りしめた拳を押し込んだ。
「〜〜〜〜〜ッ!」
グレッグは空を見上げたまま、唸った。
いま、顎を打たれ、脳が揺れたかと思うと、次は腹に一撃を見舞われている。
顎と腹。グレッグの重心が大きく傾いていた。
アートは、勝機を見ていた。
「勝てる」と思った。
目の前で、あの褐色の戦車が音を立てて崩れていくのが見える。
ゆっくりとしたペースで、ガードを上げているが、腰が退けていやしないか?
アートは笑っていた。
『シャイニング』のジャック・ニコルソンさながら狂人の笑みになっていることに、彼自身は気づいていなかった。
会ってしまったことが、問題だったのだ。
――そういうことだ、グレッグ!
グレッグの視界から、アートの左足が消えていた。
どこへ消えたのか、分からない。
アートの左足は、消え、
だがな、アート
アートは左足を高く上げ、ほとんど真上から、足刀を叩き下ろしていた。
相手のガードの上から、特殊な軌道で足撃を浴びせる、南米流(もちろん彼は独学でこれをマスターした)の上段蹴り。
縦に振り下ろす、ハイキックだった。
アート・コーポランドはその感覚を、生涯に渡って忘れることはないだろう。
ゲイリーを倒した(殺していたら良かったのに)男に、自分の必殺技が直撃している。
この技をもろ喰らって、立ち上がれるものはいない!
脳みそはぐるんぐるん揺れ、足が自分のものでないように感じているに違いない!
そして崩れ落ちる!あばよ、グレッグ!
てめえの“負け知らず”神話もここで終わり。
グレッグ・バクスターはそれでも突き進んでいた。
金属バットを打ちつけられたような衝撃を覚えながらも、彼は両拳を握りしめて突き進んでいた。
なるほど、右の縦蹴り。ブラジリアンハイキックか。
死角から放たれる脅威の蹴撃。上手い野郎だ。
タイミング、スピード、共に申し分無い。
だが、“負け知らず”に敗北をコーチにするにはまだまだ指導力不足。
威力がまるで乗っていない。
そんな蹴りじゃ俺を倒せねえよ。
ハリー・ノーランの蹴りの3倍は軽い。
じゃあ、いくぜ、アート。
今度は俺のを、受け止めてみてくれ。
「カァッ!」
拳の弾幕がアートの全身を襲っていた。
文字通り息つく暇さえ与えない拳の連撃。
ガトリング銃のように、拳が次々と発射されてはアートの体を打ち抜いていく。
アートは目の前が点滅したように思えた。
まばゆい光のカーテンが彼の目を覆っているような感覚。
目の前がチカチカと輝いては揺れる。
彼の体は、月面のように穴だらけになっていた。
アート・コーポランドの体が吹っ飛んでいた。
高く高く、彼の体は舞い上がっていた。
「フン!」
グレッグの声。
アート・コーポランドが最後に見た光景は、褐色の拳だった。
グレッグの拳がアートの顔に埋まった。
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