『アンノウン・キング』
35
「おや、もうお目覚めかい?」
アートは上体を起こすと、グレッグは路傍の煉瓦に腰掛けてタバコを吸っていた。
「さすがに打たれ慣れてんだろうな。朝までは起きないと思ったんだが」
血は拭き取られていたが、あちこちが腫れ上がり、左目は頬の肉が腫れているため瞼が半開きのようになっていた。あれを自分がしたのだと思うと、悪い気もしなかった。だがしかし、彼は負けたのだった。最後の蹴りを彼は確かにグレッグの頭に直撃させていた。それにも関わらず、グレッグ・バクスターは化け物のようなタフネスでその一歩を踏み込み、拳の乱打を浴びせたのだった。
微妙に体を動かすだけで、激痛がアートの体を走った。拘束具をつけられたように、思うように体が動かない。
「どれくらい寝ていた?」
「2、30分てとこだ。ホント、驚くほど早いお目覚めだよ」
「強いな」
「何がだい」
「お前だよ。ゲイリーも負けるはずだ。畜生。完敗だよ。
俺は最初から最後まで全力だった。戦い終えてみて、お前を倒す術が見つからない」
「術?おいおい、あんたらにそんな言葉は似合わねえぜ。ただひたすら殴り合う。それができりゃいいだろ。いや、俺も正直、最後のにはビビったぜ。実際、今でも頭ん中に石詰められたみてえにガンガン痛むしな。何だ、あれ、ブラジリアンハイキックって言うのかい?」
「名前なんか知らねえよ。自分で覚えた技だ」
グレッグは口笛を鳴らし、膝を叩いて笑った。
「ハハハッ!ありゃお前の独学か。恐ろしい街だぜ、まったく!」
「小便」
ドンキホーテはそう言うなり、ビルとビルの間の細い道へと足を進めた。
「は?」
この男は、いま、いったい何を言ったのか、
KJは多少の戸惑いながら、道をそれる老人の背を叩いた。
「何て言ったの?」
「だから、小便。ちょっとそこでしてくるから、見張っとけ」
ああ、そう。
ドンキホーテの人間らしい一面を見て、KJは少し笑った。
あんなバカみたいな強さでも、それだけは我慢できないようだ。
「年を取ると、大変ね」
「バカヤロウ。ちょっと寒いから、近くなっただけだよ。余計な心配するんじゃねえや」
老人はそう言って薄く笑い、葉巻を摘んで投げ捨てると、ビルの隙間へと入っていた。
「よおく見張ってろよ、相棒」
「はいはい」
ドンキホーテはだいぶ奥へと進んでいった。
月明かりもない夜だ。距離にしては10メートルほど離れただけのはずなのに、彼の大柄な体は闇の中に消え、やがて見えなくなった。
KJは胸を撫で下ろし、しばしの休息へと入った。
ドンキホーテが気づいているかどうかは分からないが、彼女は彼女なりに、この件に関してだいぶ気を張っている。ゴーストの存在は信じていない(と思う)が、相手が凶悪な殺人鬼とあっては、気を緩めることはできない。
相手はどんな人だろうか、とKJは想像した。
彼女は前に一度、そういう男に会っている。
ジャック・レランド。それが彼の名前だった。彼女の人生に大きな疵痕と新たな軌跡を残した男。
家族と呼べる存在を殺され、彼女ははじめ憎み、恨み、復讐を誓った。その課程でドンキホーテにも会っている。ラスベガスの帝王と呼ばれる彼の力を頼りに、ジャックを探し出し、遂に対峙した。しかし、彼女は彼に会い、彼を赦したのだった。ジャック・レランドは、悔い改めていた。彼女が彼に全てを奪われ、悩み苦しんだのと同様に、彼自身もまた自分のした行為に悩み苦しんでいた。痩せた体で、ただ救いを求める小さな老人の姿を、彼女は忘れてはいない。
トゥーマッチタウン・ゴースト。
彼はいま、悔やんでいるだろうか。自分のした過ちを。
いや、その行為を過ちと捉えているだろうか。
二人の格闘家の心臓を抉り取ったその手で、今日も鏡の前で顔を洗い、何事も無かったように食事をとっているのだろうか?
私は、彼のために祈りを捧げられるだろうか?
私は、赦すだろうか?
ジャック・レランドにそうしたように?
もし相手が救済を拒んだとしても?
「おい」
「え?」
低い、唸り声のような声が、数歩離れた先から聞こえた。
電柱の脇に、男が立っている。大柄な影。体つきはがっちりとしていた。
しまった、ぼんやりしていてまったく気がつかなかった。
ボディガードである自分を取り戻し、相手を見据えた。男は黒人だった。暗くて何かよく分からないが、体中に様々なタトゥーを施していた。
「貴様」
男は一歩、また一歩と近づきながら、言った。
KJの右後ろに錆び付いた電灯が一本立っている。先の方がやや傾き、頼りなさそうに立っているその電灯は、何十年も使い古された見窄らしいライトで、弱々しい光を二人の間に落としていた。
ここでようやく、男の姿がはっきりと分かった。歯茎が見えるほど、ガッチリと上下の歯を組み合わせている。大柄な体つき。見事だ。相当鍛えていないとこの筋肉は作り出せないだろう。男は、こちらを睨みつけていた。男が何かに腹を立てていることは、すぐに見てとれた。
「見かけん顔だな」
KJは、まるで言葉が通じないかのように両手を振って対応した。
さて、どうしたものか。
ドンキホーテはまだ帰ってこない(そういえばもう終わってもいい頃なのに)。
彼を呼ぶ?どうして?
見たところ相手はこの町の所謂“トゥーマッチタウンファイター”だろう。直感で、彼が殺人鬼ではないことは分かった。ドンキホーテの傍らにいるとそういう危険な人々にも出会わざるを得ないためか、自然と人間を観察する能力が身に付いているらしかった。
どう見ても、目の前の男は、強そうであるけど、人は殺せない。
「あの、何か?」
KJはとりあえず相手の出方を窺おうと努めることにした。
相手は依然、怒っている。時折、拳の骨を鳴らしては不機嫌そうに鼻を鳴らしている。
「おい、女、お前、まさかお前、あれじゃねえよなあ?」
「あれっていうと?」
「あれだよ、てめえ、この町であれ、つったらあれしかねえだろうが。今度、俺の前でつまんねえこと言ってみろ。女だろうが、殺すぞ」
はいはい。
KJは内心呆れながら、問い返した。その答えも分かってはいたが。
「すいませんが、この町に来て間もないもので、あれじゃ、何を言っているのか、分かりません」
「あァ?殺すぞ、あれっつったら、俺のダチのゲイリーを殺したあれに決まってんだろうがよ」
KJははじめて理解したように相槌を打って答えた。
「ああ、あの、新聞で読みました。あの殺人事件のことですか」
突然、目の前の男が退いた。
ガードを上げ、動物のような目でこちらを見ている。
思わず、彼女もまた構えてしまった。
しまった、と後悔した時には既に手に電力を集中させていた。
「怪しいぜ!」
「は?あの、ちょっと待って」
「てめえ、あれに違いねえ!この、あばずれめ!」
相手はもうKJを殺人事件の犯人と決めつけているようだった。一体どの要素が彼をそう思わせたのは定かではないが、KJの言葉を耳にするなり、すぐに戦闘態勢に入っていた。先ほどドンキホーテと死闘を繰り広げたニコライ・フォクトナーより、頭のほうは足りないらしい。恐らく、今晩彼とすれ違った者なら誰でも、おかしな因縁をつけられて殴られるに違いなかった。
「何が?」
「事件にいちいち反応してよう、俺が構えたとたんに、てめえも構えただろうが、え、やるって証拠だろう?そりゃあよう」
「あの、失礼ですが、事件の話を切りだしたのはあなたですし、私だって、そんなポーズとられると反射的に」
目の前の男は聞いていなかった。
「女だからと言って、手加減すると思うなよ。この町には女のファイターも何人かいる。そのうちの2人と俺は闘い、勝利している。路上で敵無しの、キックのジェリコ・コーツとは俺のことよ」
「はあ」
「お前のように華奢な奴なんざ、1分とかからねえうちに俺がトライフーンだな!」
「トライフーン?」
「阿呆、何も知らねえ奴だな。トライフーンてのは、俺がお前より強いことをこのキックで証明することだ!」
「ああ、Triumph(大勝利)ね」
「ゲイリーの仇討ちだ、死ね!」
ドンキホーテはまだ帰ってこない。
キックのジェリコは真っ直ぐに突進してくる。
ああ。
やらなきゃいけない。
仕方ないのだろうか。
電灯がチカチカと点滅したが、消えることはなく、やがて普段と同じ弱々しい光を落としはじめた。
キックのジェリコはカッターのように鋭いハイキックをKJの顔目がけて放っていた。
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