『アンノウン・キング』

36


 「ギギギギギギギギ」
 何が起こったのか?
 落ち着いて整理してみよう。
 俺は、キックのジェリコ・コーツ。
 ゲイリーよりは弱いにしても、アートやニコライなんかよりは強いんじゃないか?
 サム・ブレンナーやグレン・タイソンなんかと比べるのはよしてくれ。
 そんなのは、太平洋と俺んちの風呂場を比べるようなものじゃないか。
 ん。いや、少し言い過ぎたか?
 どっちにしろ、俺は強いはずだ。
 オーケイ、これだけは賭けてもいい。
 俺はマーク・コールマンとマジでやっても勝てるぜ。
 だが、いま、俺の目の前で、
 いや、俺の体の中で繰り広げられているこのバッド・ショウは、
 “俺のダメージ”そのものじゃあねえのか?
 「ギギギギギギギ」
 ううっ、目の前がチカチカする。

 KJは、襲いかかってくるジェリコの足に、ただ手の平をあてがっただけだった。
 そっと、まるで彼の功績を評価して撫でるように。
 瞬間、強烈な痛みが、ジェリコの体を巡っていた。
 体の中で、血という血が震動を起こしているような。
 「ギギギギギギ!」
 彼は歯を食いしばって耐えながら、後退していた。

 KJには、『特殊能力』がある。
 電気ウナギがそうするように、体から電流を放出することが可能だった。体内で生み出される電圧は意志によって制御することができ、最大100万ボルトまで放電することができる。彼女は、いまジェリコ・コーツがそうであるように、幼い時代をスラム街で過ごした。家族と呼べる存在をジャック・レランドによって殺され、身寄りの無くなった彼女はその荒んだ時間をドンキホーテに拾われるまで続けた。理由もなく自分から仕掛けるようなことは無かったが、当然のように幾度となく喧嘩のための拳を振るうことを余儀なくされた。そういった環境でこの『特殊能力』は大いに役立ち、戦闘技術として昇華されるに至ったのである。パンチやキックより多少の威力は劣るが、護身術としては、ただ触れるだけで相手にダメージを与え、その性質によって動きを少しの間封じる、これほど有用な技はない。威力は劣るとはいったものの、それは護身術として使えばの話で、ここぞという時にはもちろん量の調節によっては相手を致死状態に追い込むことさえ可能なのだ。
 それが、いま、ジェリコ・コーツに炸裂した。
 
 「こいつは、何だい?おい、痛えじゃねえか」
 ジェリコの言葉に、KJはただ首を振っているだけだった。まずは様子見。始めの攻撃から最大限にする必要もないだろう。というより、彼女にとってその能力をしてフルに放電するということは極めて希だった。元より、闘争は好まないタチだった。仕事の性質上、やむを得ない戦いには何度か直面しているが、それでも出来ることならば、相手を傷つけるようなことはしたくない。今回の売られた喧嘩にしても、出来ることなら、この正体不明の攻撃に驚いて、逃げて欲しかった。もちろん相手は有名なトゥーマッチファイター、逃げるなんて、考えられなかったが。

 「スタンガン?」
 今まで拳足だけで生き、ろくに勉強もしなかったジェリコにとって、女が放った攻撃がどんなものか想像するには、その程度の知識しか持ち合わせていなかった。いや、彼でなくてもそう判断せざるを得ないだろう。KJの『特殊能力』は、確かに常軌を逸していた。
 「ああ……ううっ」
 体から、まだ痺れが抜けていない。
 両足で体を支えるのが精一杯だった。その両足も、がくがく震えている。
 「この野郎。隠し武器かよ。ここで武器を使うたぁ、いい度胸じゃあねえか」
 目の前の女は、相変わらずの無表情でこちらを見つめていた。
 何かこちらを憐れんでさえいるように見えた。
 しかし、あの悲しみを抱えた目。
 その時、ふとジェリコ・コーツは空を仰いだ。
 何かが彼の中で繋がっていた。電気ショックの影響だろうか。
 とにかく、あの目が、彼をある事へ確信づけさせた。
 「ああッ!」
 途端に、両足を踏みならす。
 そう気づいた瞬間、体に残った痛みが、両足を通して地面に流れたように、無くなっていった。
 「分かったぞ!やっぱりそうか!ケッ、俺ァ分かってた!とんでもないあばずれだぜ!畜生、やはり俺がやったんだな!確信はあったがよう、今の攻撃でエビデートだぜ!」
 「明らか(Evident)でしょ」
 「うるせえ!」
 彼は怒鳴り、人差し指を真っ直ぐにKJに向けた。
 「てめえ!俺のダチを、その妙な武器で殺したんだろう!」
 「え?」
 「ああッ、それなら全部納得がいくってもんだぜ。ゲイリーはな、俺より強かった。俺より強いってえことは、そりゃ世界か2番目か3番目ってことさ。え、この意味が分かるかい?分かんねえだろうな。あいつに勝てる奴はこの世の中にそうはいねえってことさ!」
 そう言って、突き出された人差し指を固い握り拳へと変貌させた。
 「そう、だから分からなかった。アートやジョーは、ゲイリーが一対一の素手の戦いで殺されたとかぬかしやがる。え?ゲイリーにとってそんな有利な勝負で、奴が遅れをとると思うか?いいや、こいつは確かさ。負けるはずがねえ。ああ、間違いないんだ」
 ジェリコはゆっくりと腕を戻し、再び、最初にKJを疑った時のように、ボクサースタイルでガードを固めた。
 「だが、その『武器』がありゃあ別だわな。アイアン・マイクも、カシアス・クレイも、遠くからマシンガン突きつける奴が相手だったら、自慢の拳が届く前にゲームオーバーになっちまうんじゃねえか?それで、殺したんだろう?畜生、ゲイリーの奴、あの痛みを死ぬ寸前まで味わわされたってことか!」
 「あの、何か勘違いしてない?」
 「畜生、死ね!」
 有無を言わさず、ジェリコは叫んだ。
 KJはただ首を振るばかりで、半分呆れながら、手を翳した。
 ジェリコ・コーツは突っかけた。
 やはり怒りが、彼を駆っているのか、
 先ほどとは段違いの速さで向かってきた。
 気がつくと、彼の片足が舞い上がっていた。
 キックのジェリコ・コーツの、鋭いキックが宙で弧を描いていた。
 しかしKJは、それを腰を落とすことだけで躱した。
 他に何の動作もしない。体勢を整えたり、反撃のチャンスを窺ったりもせず、
 ただ屈むことだけで行動を終えていた。
 「ぬう!」
 構わず、ジェリコは蹴った。
 右の前蹴り。続けざまに左足のミドルキック。
 KJは連続して繰り出される蹴撃をダンスでも踏むかのように流れるように躱していく。
 ジェリコはさらに蹴った。
 突進からの膝蹴り。
 豪音とともに、風が膝と共に巻き上がった。
 KJは、相手の動きと同時に後転していた。身を低くしながら、後方へ下がる。
 ジェリコの攻撃は、またしても不発に終わった。
 「ねえ、ちょっと話を聞いてくれない?」
 「黙れ!次こそ当てるぞ!」
 「第一、もし、私が殺したっていうなら、素手の貴方が私に勝てる見込みは無いじゃないか」
 「馬鹿か。俺たちは俺たちのルールを曲げねえ!絶対にな!」
 KJは少し俯き加減に相手を見ながら、
 できればこのまま去ってほしいというような顔つきで、呟いた。
 「………これ以上やるというのなら、さっきは軽めにやっただけど、今度はちょっと強くやらざるを得ないよ」
 「あァ?何を躊躇ってやがる!俺を殺すつもりでやりゃあいいだろうが」
 恐らく、この時、ジェリコ・コーツは少しでも不審がるべきであった。その足りない頭でよく考え、目の前の女性が殺人者でないことを悟るべきであった。しかし、もはやジェリコの頭は固まった粘土のように、KJを殺人者として見なす方向に向いて動かなかった。
 彼は、ぐっ、と重心を下げた。
 背の高い彼の体が、盛り上がった岩のような迫力を帯びていた。
 渾身の一撃を放つさいの、『タメ』に相違なかった。
 呼吸を整え、筋肉を硬直させる。
 半ば自己暗示に近い形で、己の体に散在している力を凝縮し、高い威力の攻撃を放つ。
 ジェリコの両目が、KJに向けられた。
 スーツ姿のその女は、やはり悲しげ(いや、あるいは何かつまらそうな目とも捉えることができた)で、こちらの行動を窺っている。
 ジェリコ・コーツは笑った。

 KJは、どうすべきか考えていた。
 目の前の相手は隙だらけ。
 何かの『タメ』を作っていることは明らかだったが、どうやらその攻撃も先の連続攻撃から考えるに、さほど警戒すべきものではないだろう。
 躱すことも、容易だ。
 攻撃も何となく予想がつく。
 キック・ジェリコの飛び後ろ回し蹴り、ってとこだろう。
 それか、飛び膝蹴り?
 どっちにしても、あの目とあの構えからはジャンプからの攻撃としか思えなかった。
 相手は、相当に頭が悪い。
 恐らくは最後の切り札とも言うべきとっておきを、『タメ』などという無駄な動作で、設計図を広げて見せるように知らせている。
 さて、どうすればいい?
 一応の忠告はした。
 ドンキホーテは帰ってきていない。
 自分はドンキホーテのボディガードである。
 そして彼は「ちゃんと見張っていろ」と言った。
 さて、どうすればいい?
 KJは、決めた。


 ジェリコ・コーツは笑っている。 
 ―――クックックッ。
 今に見ていろ。
 キックのジェリコの最速にして最強のシュートを、貴様の顔面にぶち込んでやる。
 対ゲイリー戦にとっておいた、俺の最終兵器だ。
 本来ならば、ゲイリーにぶつけてやりたかった、俺の持てる最高の財産だ。
 自慢の隠し武器を使う前に、ぶち当ててやるぜ。
 おやおや、なんて悲しい目だい。美しい顔が台無しだぜ。
 その心はどれだけどす黒いか分からねえけどよ。
 そう、怖い顔をしなくても、明日、目が覚めたころにはもう全て終わってる。
 飛ぶぜえ。俺は高く飛ぶ。
 お前を見下ろし、力を込めて 一気に
 蹴  え、   しまっ
 あ れ?

 
 ジェリコが走り込んだのと、ほぼ同じタイミングであった。
 敵は動かぬと高をくくっていたジェリコの動きに、乱れが生じていた。
 相手の動きに合わせて動くことで敵の感覚を奪っていた。
 ジェリコの視界から、目の前のスーツ姿の女が消えた。
 一瞬の躊躇いが彼を戸惑わせ、何が起こったのか、分からなくかった。
 生憎、頭の回転速度ではファイターの中でもキレの悪いほうだった。
 ただ、いないと判断した時には、腹をそっと触られていた。
 「ちょっと、ごめんね」
 女は、たしかに謝っていた。
 次の瞬間、魂を引っこ抜かれたように気を失ったジェリコだったが、翌朝目覚めた時も、それはよく覚えていた。
 彼女はたしかに謝っていた。
 彼が目覚めたとき、ゲイリー殺しの事件は既に終わっていた。
 あの女は、殺人鬼なんかじゃなかった。
 彼の頭は、いまから10時間ほど経って、ようやくまともな方向に動き始めた。

 


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