『アンノウン・キング』
37
KJは、深呼吸し、足下で仰向けになって倒れる黒人を見下ろした。
彼は笑ったまま、気絶していた。足を投げ出し、口を大きく開けたまま、空を見上げている。まるで大きな子供が、遊び疲れて道ばたで眠っている様だった。
ジェリコ・コーツは確かに強かった。格闘技のセンスにおいては、KJのそれを遙かに凌いでいた。だが、実戦における戦闘技術では、KJの方が勝っていた。ジェリコのタイミングを狂わせると、彼女は、横に飛んだ。わけもなく、相手の攻撃から逃れたのではない。くたびれた電灯に照らされたエリアから、脱し、闇の中へと転がり込んだのだった。ジェリコは感覚を奪われた上に、咄嗟のことで彼女を見失い、ますます狼狽した。自慢のキックを出せずに困惑するジェリコ。もはや勝負は見えていた。KJは素早く彼の後ろに回り込むと、そっと手をあてて、目を瞑り、放電した。一層強力な電流がジェリコの体を駆け巡った。
電気量から考えて、目覚めるのは明日の朝くらいだろうか。KJはジェリコと一緒になって空を見上げてみた。
月の無い夜だ。
ドンキホーテと共にこの街に来てから、まともに月や星空を見ただろうか。泥のように陰鬱な影は、やはり街全体に降りていた。何か嫌な予感がしてならない。彼女はふと、ドンキホーテのことを思い出した。まだ彼は帰ってこない。何の声も聞こえない。音もしない。それほど遠くには行っていないはずだった。彼が用を足しに行った建物の間には、依然として闇が充満している。何一つ、確認できなかった。
「ドンキホーテ」
彼女は老人の名を呼んでみた。
反応はない。
妙だった。
あの老人に限って「万が一」は無いだろうが、やはり気になる。
KJは、ジェリコを引っ張って建物の壁に凭れさせると、ドンキホーテが消えた闇の中へ歩を進めた。
「畜生」
ダニエル・ヒューズは怒っていた。
アートに対して。サムに対して。ニコライに対して。ジェリコに対して。そしてブルドッグ・ジョーに対して。
狼のような殺意を彼らに向け、彼は夜のジョウドエリアを走っていた。
「俺をのけ者にしやがって」
10分前、いつもの酒場で、彼はビッグ・ボブと出会い、全てを理解した。誰が彼を最初にそう呼んだのかは分からないが、ビッグ・ボブはその名に縁遠いほど似合わず、背の曲がった小さな老人だった。ビッグ・ボブのビッグは大口のことだとか、下半身を指すだとか言われてからかわれているところを、ダニエルは何度か見たことがある。街で知らない者は少なく、流れ者として土着した人間ではトロボウスキーと並んで長い、物知りな爺さんだった。いつもこの時間になると、真っ赤な顔でビールを飲んでは、その日行われた賭け試合についての感想を言うのが常だった。
顎髭をさすりながら、グレンは可笑しそうに笑った。
「ダニエル坊や、こんなところで何してんだい?」
それが、まず彼の発した言葉だった。
「何ンのことだよ」
ボブは引きつったような笑みを浮かべて、ビールを喉に流し込んだ。その態度が、ダニエルを一層不愉快にさせた。
「俺はいま機嫌が悪いんでな。答えによっちゃあ、その首をへし折るぜ、爺さん」
「無理だな、坊や。お前にゃ無理だ。ヘッヘ」
「あんた、俺をいつまでガキだと思っているんだ。俺はもう十分やれるぜ」
「ヘッヘ。無理をしちゃいかん。ダニエル坊や、あんたア、外されてんのだからな」
「何?」
「一端を気取るなら、まずあいつらに認められなきゃあいかんぜ」
「アートたちのことを言っているのか?」
「ジョーとアートが話しているところを、見た」
「ジョーが?」
ブルドッグ・ジョーに関する話は、あの会合以外、何も耳にしなかった。アートは彼が仲間になったといったが、それからもう音沙汰もなく、仲間の間でも彼の話題が出なくなったため、ダニエルは結局ジョーは仲間にならなかったのだ、と思っていた。そのジョーが、今朝アートと話をしていたという。
「何だと?」
「ああ、そういやニコライの奴もそばで聞いてたわな。ヘッヘ、あんた、知らんかっただろう?坊やだなあ、大人の話にゃ入れてもらえねえのよ」
ダニエルは立ち上がり、栗色の髪の毛が逆立つほどの怒りを覚えていた。拳を握りしめ、カウンターを叩いて老人をにらみ据える。
彼は理解しはじめていた。この仮説が事実だとすると、全て納得がいく。毎晩行われていた犯人探しが、何故、今日は中止になったのか。
耳が紅潮し、唾を飛ばしながら、彼は叫んだ。
「何を話していた?」
老人はダニエルには見向きもせず、ただジョッキに唇をつけるだけだった。
「おい」
「マスター、もう一杯もらえるか?」
「爺さん」
ダニエルの腕が、ボブの胸ぐらに伸びた。
ビッグ・ボブはそれを片手で払いのけると、酔っ払い独特の遠くを見つめるような笑いを浮かべた。
「何も聞いてねえよ。俺ア、その2つ離れた席で飲んでただけ。ちょうど、この席だったかな?」
「聞こえていたんだろう?」
ダニエルの声に、ボブは下品に笑って、彼に首を向けた。
「もうやってんだろ?ゲイリーを殺した奴を捜してんのさ。ジョウドエリア。何度も耳にした言葉はこいつだけさ。ヘッヘ。坊や、どうすんだい」
「クソ」
ダニエル・ヒューズは走った。
裏切られたのだ、と思った。
彼の小さな体に、憎悪や妬み、憤怒が凝縮されていた。
彼はひたすら、ジョウドエリアを走り抜けた。
アートか、ジョーか、ニコライか、あるいはゲイリーを殺したクソ野郎に会って、まずその顔をぶん殴りたかった。ビッグ・ボブの言うように、アートは自分をまだ子供だと見なしているようだが、自分では、そうは思っていない。もうだいぶ実戦を積んできた。ゲイリーのスタイルを間近で学び、アートの切れ味を独学で盗み取った。
俺だって、やれるはずだ。
足手まといにはならねえ。
それなのに、あいつらは―――
その時、彼はとんでもない悪寒を感じた。
足下がすくみ、動かない。
背後から、何か来る。
彼は振り返りこそしなかったが、
射抜く視線を感じていた。
それと、灰色の殺気。
「ダニエル坊や、お前にゃ無理だな」
ビッグ・ボブの言葉が頭の中で木霊する。
彼は舌打ちし、振り返った。
彼は、踏み入れてはならない場所に踏み入れてしまった。
彼は、見たことを後悔するものを見てしまった。
そして、“奴”が来た。
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