『アンノウン・キング』

39


 風が吹いたようだった。
 黒い風が彼の頬に向かって吹き抜ける。
 目の前が激しく震動し、彼の意識もまた同時に震えていた。
 ぼやけた意識の中で、彼が見たものは黒い影の鞭であった。
 背の高い長身の男が片足を上げて立っている。
 まだ目が震えているため、はっきりとその姿を確認できない。
 ただぼんやりとした黒い男の印象であった。
 次に、彼の視界が回転した。
 ぐるりと斜め右に45度。続いて左に30度。さらに真上に視界が転がる。
 あらゆる方向に向かって巡っていく。
 ジェットコースターに乗った時の感覚を、彼は両足を地面に着きながら感じていた。
 吐き気。
 上体が大きく後ろへ傾いた。
 だが、辛うじて踏みとどまる。
 倒れてはいけない。
 絶対に倒れてはいけない。
 俺は目の前のこの男を倒さねばならない。
 死んだダチのジョン・マガウンのためにも。

 「ヒュゥ!やるじゃないか」
 先ほどまで影でしかなかったその男は黒いシャツを身に纏っていた。金髪の白人。痩せてはいるが、さほど華奢といった印象を受けない。何より、いまの攻撃を華奢な男が撃てるはずはない。相当の筋肉を、あの痩せた体を包んでいるのだ。パワーとスピードを矛盾させることなく鍛えている。薄い筋肉は、重厚な肉体よりも厄介な場合が多い。相手はかなりの使い手と見えた。
 
 「流石だな。マガウンがやられるはずだよ」
 トビー・アックランドは拳を握って、再びの攻撃に備えた。
 まだ頭の中はぐらぐらする。
 キックの攻撃を想定して、両拳の間を少し余計に広げる。
 「なあ、そろそろ俺の話に耳を傾けてくれないか?お前は勘違いしているんだよ。とんでもない間違いをさ」
 黒シャツの男は言った。
 トビーは首を振って、もう少し腰を落とす。
 「俺は殺してない、そう言うんだろう。意味が無い。お前は何を言ったってそれを証明することはできない。違うか?」
 「そう言われると、返す言葉が見つからないが」
 「いや、実際のところはそこはたいした問題じゃない。どっちにしても、この町を我が物顔に歩く余所者は、俺の好むところじゃなくてな」
 「いかんな。もっとフレンドリーな歓迎を期待してたよ」
 「無駄さ」
 「俺の再三に渡る攻撃に耐えたのは認めてやるよ。特にいまの攻撃はけっこう本気で蹴ったからな。だが、次のターンで俺はお前に勝利するだろう。間違いないなくな」
 「試してみろよ、ミスター・アンノウン」
 「俺の名前はハリー・ノーラン。覚えておきな」
 二人は一気に間を詰めた。

 拳。
 喧嘩師ミスター・マガウンと優劣を競い合った拳の弾丸が、トゥーマッチタウンの夜風に乗って突き出された。
 疾い。
 両足と腰の回転が加速力を増し、格技評論者が見れば、間違いなくプロの出したものを見紛うであろうほど、精練された美しい拳撃だった。
 その打ち込み方は空手の正拳突きに似ていた。
 だが、目の前の男(ハリー・ノーランと言ったか?)は、この攻撃を前にしてさらに一歩踏み込んでいた。
 やはり風のようなその動きは、踏み出しながらもトビーの攻撃を躱していた。
 拳と、男の顔がすれ違っていた。
 同時に動いてから、ほんのわずかな時間であった。
 1秒を細切れにした、刹那の間。
 その間にハリーはトビーの攻撃を見切り、続いて自らの攻撃を踏んでいた。
 顎への一撃。
 拳だ。
 アッパーカット気味に拳を打ち上げ、トビーのバランス感覚を奪う。
 事実、トビー・アックランドの動きが揺らいだ。
 攻撃を放ち、腕を伸ばしきっていたこともあって、簡単に前方へ蹌踉めいている。
 ―――倒れる。
 ―――!
 右の膝だった。
 強烈な痛み。胃を突き破るような威力だ。
 この二撃に、トビーの表情は苦痛に歪んでいた。
 ここ数ヶ月の間に味わったことのなかった久しぶりの苦痛。激痛。
 トビーの体が崩れていった。
 両腕を垂れ、膝から力が抜ける。
 だが、目は死んでいなかった。
 その両目でしっかりとハリー・ノーランの顔を凝視している。
 この男がジョン・マガウンを殺したのだろうか?
 この男ならやれるかもしれない。
 この男なら俺の心臓さえも。
 ―――まだだ。
 途端に、トビーは自分の体に力が漲るのを感じていた。
 両膝、両拳にはまったく力が入らないが、まだやれそうな気がする。
 一見矛盾しているが、確かな感覚だ。
 恐らく、倒れてからも闘えるということであろうか。
 とにかく、今は倒れるが、まだやれそうな気がした。
 
 ハリーは、その目を捉えていた。
 鋭い眼光。迫力に満ちた闘志の目。
 厄介だ、と彼は思った。
 自分はここにストリートファイトを楽しみに来ているわけではない。
 それだけは否定せねばならない。
 (ここを否定できなければ、グレッグに対して格好がつかない)
 あくまで犯人捜しに協力しているのだ。
 だからこの後、どんなに確率が低かろうとも犯人を捜さねばならず、こんな所で自分のことをその犯人だと勘違いしている輩と無駄な時間を過ごすわけにはいかない。
 ミスター・マガウンの親友か。
 悪いが、仇は俺がしっかり討っておいてやる。
 しばらくここで寝ていてくれ。
 ハリー・ノーランは片足を再び浮かせた。

 ――――!

 悪寒が走った。
 とんでもない殺気。
 炎にも似た激しさを帯びた殺気の主が背後に―――
 ハリーは腰を深く落とし、屈んだ。
 彼の頭上で風を切る音が鳴り響いた。
 拳による攻撃らしかった。ボクサーか?
 ハリーはほとんど座っているような格好になりながら、
 浮かせた右足を目の前の男に対してではなく、
 背後からの襲撃者に対して、足を払うようにして繰り出した。
 黒い風が蛇のように地を這った。
 カウンターで足払いが決まれば、ほぼ間違いなく相手のダウンを奪うことができる。
 そして彼の放った攻撃は確実に相手の足を払えるはずだった。
 先ほどまで対戦を繰り広げていたトビー・アックランドがその両目に闘志を宿したまま崩れ落ちる。
 背後の男はハリーの攻撃をじっと攻撃を見下ろしている。
 どれもが一瞬の出来事だった。

 


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