『アンノウン・キング』

40


 確実に当たると踏んでいたハリーの攻撃はしかし空振りに終わった。
 風のようなハリーの攻撃を、背後からの襲撃者は両足で地面を蹴り、ステップを踏むことで躱していた。
 軽やかなフットワークであった。
 蝶が舞うようなステップ。
 攻撃を受けることなく躱している。
 往年のモハメド・アリを思わせるあのテクニック。
 ハリー・ノーランは攻撃が躱されても動じず、相手を見上げた。
 巨大な男だ。7フィート近い褐色肌の大男。そして何より異様なのは、その―――
 ハリーの目が見開かれた。
 ―――やばい。
 大男は怪腕を持っていた。両足並の太さと長さと備えた怪物の腕。
 異常に競り上がった両肩。“力”を腕に凝縮し、粘土のように引き延ばしたらなら、あんな形になるだろうか。
 その“力”が、ハリー目がけて放たれていた。
 男の両足はまだ地から離れている。
 宙空にいたまま、彼は怪物の腕の片方をハリーの顔面目がけて打ち下ろしていた。
 グレッグ・バクスターのものより遙かに太い。筋肉の柱が打ち落とされている。
 ―――あんなのまともに喰らったら

 ハリーは咄嗟の判断で体を横に転がしていた。
 その時に稲妻のような打ち下ろしストレートが、彼の頬を掠っていた。
 男の指の関節がハリーの頬を撫でるように走った。
 それだけで信じられないほどの衝撃を感じていた。
 本来ならば助かったと思うべきところを、ハリーはただとにかく「やばい」と繰り返すしかなかった。
 薄い筋肉は衝撃への吸収力が弱いため、防御面ではさほど役に立つとはいえない。
 グレッグほど体格に恵まれてはいない自分にとって、その攻撃をまともに喰らうことが何を意味するのか、(ここが殺人現場だ)いまのこの攻防で彼は感じ取っていた。
 彼の頬を一筋の血が流れている。切れたのだ。
 パンチは極限まで鍛え込まれると、人智を超えたスピードが備わり、重い鈍器から鋭利な刃物に変わるという。
 目の前のこの褐色の大男の拳は、極限にまで達しているに違いなかった。
 頬を流れる暖かい温もりがそれを確信させている。

 「後ろから襲ってくるとは、感心しねえな」
 ハリーは立ち上がり、言った。幸い、震えもなければ恐怖も無い。先ほど感じたのは突然のことに対する驚きに過ぎなかったのだと思った。無差別級の世界王者の中にだって、ホラーハウスのアトラクションで驚く奴はいるだろう?ちょっと焦っただけだ。もう大丈夫。持ち直せるぞ。
 彼はふと足下で横たわるトビー・アックランドに目を移した。トビーは気絶していた。あるいは眠っているのかもしれない。あの目は確かに本物だったが、どうやら体がついていけなかったようだった。
 「あんたは、誰だい?」
 ハリーは両拳を握りしめていた。
 いつ目の前の男が襲ってくるかもしれない。
 油断は禁物だ。
 「その質問にはお前が答えろよ」
 「ん?何だって?」
 「殺すつもりだったんだろう?その男をよ」
 そう言って男は倒れているトビーを指さした。
 額の血管が膨れあがり、怒りを露わにしている。凶暴な獣性を男の全身から感じることができた。唸り声をあげるライオン。狩りをする際の本能。 どうやらそのライオンは、トビー・アックランドがそうしたように、自分のことを例の事件に犯人と疑っているらしかった。犯人捜しの協力を要請され、自分が犯人にされたんじゃ、まったくどうしてこの町に来たのだろうか。しかし、どうもこの男、見覚えがあるぞ?どこで見た?ニューヨーク?この町?それとも――
 目の前の大男は相変わらずの腹立たしさを含ませた口調で続けた。
 「“殺せる使い手”だぜ、お前。そこらのファイティング・キッズとは比べものにならんほどにな」
 「俺に人を殺せるかどうかなんて考えたこともないが、あんたは勘違いしているよ。俺は殺人者じゃない。この男はいまのあんたと同じように俺を殺人者と勘違いして襲いかかってきた。俺は自己防衛の手段として、やむなく暴力を振るったまでだ。殺そうとはしていない」
 「言ってろ。いずれにせよ、その明確な証拠を提示することはできまい」
 「また、それかよ」
 「運が良ければ死なんさ。少しの間だけ、ぶっ叩かれてろ」
 大男の影が、ぬっと伸びた。
 あの巨大な腕が再びハリーに向かっていく。
 怪物の腕が。

 ハリーの脳裏をある言葉が過ぎった。
 “モンスター・アームズ”
 怪物の腕を持つ男、ロイ・ベーカリーか?
 ヘヴィ級ボクシングの王者が、何故ここにいる?

 ロイの拳が再び唸っていた。
 風を切り、あの燃えさかる炎のような迫力を持って、
 拳が振り下ろされている。
 ハリーは咄嗟に両腕をクロスした。
 激しい震動が彼を襲っていた。
 高速度で勢いよく車がぶつかってくるような感覚。
 事実、それはとてつもない痛みを伴った。
 ガードしていたにもかかわらず、ハリーの十字の防御はあまりの威力の高さに強制的に解かれ、力の余力が体ごと吹き飛ばしていく。
 ハリーの両足は地面を離れていた。

 腕は無事か?
 折られていないか?

 回転する意識の中で、彼は離れた位置に立つあの大男、ロイ・ベーカリーを見た。
 どうやら自分は、今からヘヴィ級王者“モンスター・アームズ”ベーカリーと戦わねばならないらしかった。
 理由もよく分からない。
 あちらの一方的な勘違いで、悪い奴(それが俺)を懲らしめるということだった。友人に誘われ、妻の死を思い、何かしら掴めればと思って訪れたこの町で、自分は殺人者と決めつけられ、ヘヴィ級王者と対戦を強いられている。そして事実は既に始まっていた。両腕の痺れがそれが夢で無いことを確信させている。彼は運命に巻き込まれた一つの無力な魂に過ぎないらしかった。おお、この理不尽さ。一体、何をお望みなのです、神よ?

 ベイビー、このまま進んでいこう

 ハリー・ノーランは、ただ構えるしかなかった。

 


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