『アンノウン・キング』
41
ロイ・ベーカリーは実際のところ、相手が殺人犯であるという確証は持っていない。それは犯人の目撃証言が出ていない現在、誰もがそうであろう。昼下がりにすれ違ったとしても、それが犯人だと断定することはできない。ただ、目の前の男は恐ろしく強かった。あの動き。長年、プロの格技者としてリングの頂点に君臨してきたが、あれほど完成度の高い技術はあまり見たことがない。先ほど戦ったストリートファイターとは明らかに一線を画していた。それが、ロイに目の前の男こそ犯人であると断定させていた。
苛立っている、ということもあった。「今日は会える」と宣告され、(もちろん可能性が低いことは分かっている)入念なウォーミングアップ、モチベーションの昂揚を徹底したにも関わらず、その乾ききった喉を潤すことができずにいる。今晩、この拳をフルに使えないようなことがあれば、結果がどうであれ、マイク・ドースンを殴り殺してしまうかもしれなかった。彼は今すぐにでも、ライオンのように暴れたかった。そして目の前の男は、(幸いなことに白人で)それを可能にさせてくれるほど強い。
もちろん、負ける気はしないが。
ハリー・ノーランは構えたまま動けずにいる。
幸い、骨も折れていなければ、ダメージも戦えなくなるほど大きくはない。しかし、本当に目の前の男はあのモンスターアームズ・ベーカリーなのか?どうやら確からしい。この暗い路上に立っているのは、見紛うはずもない、あの怪腕の男。競輪選手の足をそのまま両肩にくっつけたような、あの長く、太い腕。いつもと違うのは赤いグローブを填めておらず、力強い拳が剥き出しにされていることだけだ。
ハリーは彼の試合をTVで何度か見たことがある。歓声を浴び、赤いグローブを打ちつけ、対戦者を待ちかまえている。対戦者は、はじめは意気込んではいるが、実際に試合が始まると、それが試合ではなく狩りであったことを知ることとなる。ライオンの檻に投げ込まれたシマウマのように対戦者は逃げ惑うしかない。圧倒的なまでにひらきすぎた力の差。
俺は、今から、あのリングに上がるのか?
待て。落ち着け、ハリー。
相手はどうやら―――剥き出しの拳。
俺があのリングへ上がるって?
―――ストリート。
そいつは違うぞ。
畜生、ロイ・ベーカリーと戦うのは確からしいが、リングに上がるのは、他でもないあいつさ。
ここは俺のリングだ。そうだろう?
ハリー・ノーランは溜息をついた。もはや恐れはない。
「ロイ・ベーカリー」
「ほう。知ってたかい?光栄だな」
「いや、光栄なのは俺の方さ。行きたくもないこの町に来て、はじめての嬉しいニュースだ。あんたみたいな有名人に会えてさ。しかもあんたは俺と戦おうと言ってくれてる」
ハリーは軽くステップを踏み始めた。
テコンドー選手がするような軽やかな足捌き。
「プロのボクサーにストリートの厳しさってやつを教えてやれる、またとない機会だ」
余裕を含めた表情で、ハリーは言った。
「まったく、俺はツイてる」
その言葉に、逆にロイの表情がむっと強ばる。
怒りが沸き上がってきていることが手に取るように分かった。
「勝てると言うのか?この俺に」
「ああ。何一つ問題ないと思うぜ」
ロイ・ベーカリーもハリーに応えるようにガードを上げた。両肩が異様な大きさのため、彼がガードを固めると、そこに小さな山が出現したかのような威圧感にも似た迫力があった。両目は炎を宿したようにぎらぎらと燃え、かっと見開かれている。
ロイは怒気を孕んだ声で叫んだ。
「さっさと試してみろ、カウボーイ」
ハリーは微笑み、片足を上げた。
「俺は保安官(シェリフ)だ。いますぐ牢屋にぶちこんでやるから覚悟しときな、悪党」
どうなるかは分からない。
分からないが、出会ってしまった以上はやるしかない。
ハリー・ノーランは跳躍した。
いつも通りに。
グレッグとニューヨークで暴れ回っていた頃と同じように。
一番いい形で蹴れば、何一つ問題ない。そのはずだ。
彼がここに来て、いつも思う言葉は、何かの西部劇で聞いたあの台詞。
「この町を地図からきれいさっぱり消してやる」
しかしもう始まっている。
消す前に、すべきことをしなくてはならない。
運命を受け入れるのもまた、一つの救いでもある。
それはひどく辛いことではあるが。
彼は翔んでいた。
高く、長く、鷹が獲物を狩るように路上を滑空する。
その先には怒れる怪物が拳を上げて立っている。
右足を薙ぎ払うように蹴った。
ロイ・ベーカリーはゆっくりと体を下げ、攻撃のタイミングに合わせて拳を振り抜いた。
長足と長腕がクロスした。
大きな衝撃音とともに、両者は一度は近接したその距離を引き離していた。
二人の戦士は既に出会っていた。
戦うしかなかった。
| 第42話に進む |
| 第40話に進む |
| 図書館に戻る |