『アンノウン・キング』
42
ジョウドエリアの区域で最も広い道を、褐色肌の男が歩いていく。凍てついた空気を防ぐため、両手をポケットに差し込んだまま、グレッグは一歩一歩を大股に進んでいく。彼の屈強な体には至る所に傷が刻み込まれていた。刃物や火器によるものではない、明らかに殴打による傷。先ほどのアートとの戦いの間に生まれたものだった。
道を、電灯が頼りない光を微かに落としていた。旅行者用の車道として利用されることもあってか、電灯は先200mほどに渡って等間隔に並んでいるが、実際に点灯しているのはそのたった一本のみであった。暗い。しかし、この暗き中にあってただ一つ輝きを灯すその電灯は彼にとってたった一つの希望にも見えた。
―――例の犯人には未だに出会えていない。
小さいとはいえ、それでも人間が一日で歩くには広すぎる町だ。区画もいくつにも分かれ、今日はこのジョウドエリアを選択してはみたが、このエリアに犯人が現れるという確証はどこにもない。やはり、ハリーの言うように犯人を自分の手で捕まえるなどというのは、途方もない馬鹿げた考えだったのだろうか。自分に出来ることなど、何もなかったのだろうか。明日、ハリーは帰ると言う。自分としてはもうしばらくシンシアの期待に付き合おうと考えてはいるが、それでも今日は一つの節目になるだろう。 トゥーマッチタウン・ゴースト(ラス・チャキリスが犯人をそう呼んでいた)が現れることを期待して、ただひたすら歩く。
グレッグの耳に、足音が聞こえた。
遠くから響く乾いた音はこの町の薄暗さと調和し、不気味な恐怖を煽っていた。
もちろん、グレッグは怖れてはいない。
怖れてはいないが、まるで自分が恐怖映画の登場人物になってしまったような妙な感覚を覚えていた。
それじゃあ何かい。あの足音の主は噂のトゥーマッチタウン・ゴーストとでも言うのかい?
オーケイ。上等じゃないか。あのイカれた頭をぶん殴れるチャンスだ。
グレッグは拳を鳴らし、足早に近づいた。
足音の主がぼんやりと姿を現した。
あの一本の電灯の光の届く範囲にいて、その大きな巨体が確認できた。
相手もこちらに気づいたようだった。男はメガネをかけ、その奥から眠そうな目でこちらを眺めていた。強烈な存在感を与える肥満体。大木のような両腕と両足。見上げるほどに高い背丈。そして、何より印象的なその顔。
「おやおや」
グレッグは苦笑し、相手と一足分の距離で立ち止まった。
男は不機嫌そうな目つきで黙ったままこちらを見下ろしている。
「Who let the dog out?(誰が犬を逃がしたんだ)」
目の前の男の顔は驚くほどブルドッグに似ていた。グレッグはこれまで猿に似た男や馬顔の男を見てきたが、しかしブルドッグというのははじめてだった。
「いや、しかし」
口元をさすりながら、グレッグは男を見上げた。
「似てるなあ、オイ」
「グレッグ・バクスターだな」
犬顔の男の口から低い声が吐き出されていた。期待を裏切らない重たい声。番犬向きの威圧感たっぷりの声量。
グレッグは再び苦笑し、答えた。
「ホウ、ご存じかい。嬉しいぜ、こんな辺境まで俺の名前が知れ渡ってるとはな」
「ある程度の特徴は聞いていた。まさか会えるとは思っていなかったが。以前、ゲイリーを倒したことがあるそうだな」
「ああ。そいつが全ての始まりだ。あいつと戦ってなきゃ、俺はここにはいない」
「傷が、あるな」
「あんた、何者だい」
「アートと戦ったのか」
「待ちな。いまは俺の質問に答えろよ、ブルドッグ」
「それでいい。この町の者は俺をそう呼ぶ」
グレッグは堪えきれず、膝を叩いて笑った。
「ハッハッ!この町のネーミングセンスには頭が下がるぜ。すごいな。是非、俺のガキの名前も考えてもらいたいもんだ」
目の前の巨漢ブルドッグ・ジョーはグレッグの笑いにも表情一つ変えず、静かに続けた。
「次は、俺の質問に答えな。アートと戦ったのか?やたら足技を多用する、髪の臭ェ奴のことだが」
「戦った。派手にやられたがな、いまこうして立ってるのは俺だ」
「そうかい」
ブルドッグ・ジョーは舌打ちしてグレッグから目を逸らした。
地面を見ながら何か考え事をしているようだった。
グレッグは袖を捲り上げ、両手に白い息を吹きかけた。
「なあ、何で今日はあんたらみたいなのによく会うのかなあ」
「何だと?」
「ああ。昨日までは一度もこんなこと無かったのによ、今日はこの1,2時間の内に二人目だぜ。ツイてるのか、ツイてねえのかは謎だが」
「知らずに回っているのか?今日、このエリアを?」
「うん?何を言ってんだ?今日はパーティの予定でもあるのかい」
「お前はツイている」
「ぬ?」
ジョーは、やはり表情一つ変えずにグレッグと擦れ違おうとした。
分厚い肉に包まれた巨体が、グレッグのすぐ隣を通過していく。
「おいおい」
クレッグがその肩を掴んだ。
五本の指でその小山のような肩を掴む。ただの肉ではないことはすぐに分かった。重厚な脂質を残しながらも、内部には絞り込まれた筋肉が密集しているには違いない。ニューヨークで戦ってきた連中の“堅さ”がその肩にはあった。一般人のものではない。明らかな“格技者”の筋肉。
「待てよ」
「話は済んだはずだ」
「済んでないだろう?」
「済んだな。お前はこの先、歩き回っていればいい。運がもう少しだけ良ければ、会える」
「この町の連中は皆、血の気の多い奴ばかりだと思っていた」
ジョーはグレッグの言葉に少し間をおいて、答えた。
「俺もアートより先にお前に会っていたなら、お前をこの町から排除することに努めていただろう」
「だが、手負いの俺じゃあ不足かい」
「不足だな。いまここでお前とやるなどあり得ない話だ。いまお前は既に負けかかっている。傷を見れば分かる」
「心配なんか無用だぜ。俺の体はな、ちょっと大げさなんだ」
「無駄だ。本気のアートの強さは知っている。お前の“負け知らず”の栄誉は崖っぷちに立たされているんだ。はっきり言おうか。いまのお前は戦う価値がない。放っておくのが妥当な選択だ」
「ハッ!そこまで言われると、なおさら引き下がれないな。俺があの坊やに深手を負ってるって?冗談じゃないぜ、ブルドッグ。俺をここの町の連中と同レベルに見てもらいたくないな」
「価値も無ければ、必要もあるまい。俺は行くぞ」
「戦わざるを得なければどうだい?」
ジョーの歩みが止まった。
「損をするのはお前だぞ」
「ダメさ。実際のところ、お前は俺を知っているかもしれないが、俺はお前を知らない。お前が犯人だったってオチだって考えられるんだぜ?そうだろう?見たところ、お前はかなり強そうだしな」
「俺が犯人だと?」
「それに、お前のお友達とは既にやってるんだ。相手を選ぶなんて差別はできねえ」
ブルドッグ・ジョーは腕組みし、相手を見下ろして言った。
重く、低い声がグレッグの鼓膜を震わせる。
「ゲイリーが死んでから、俺は度々思う。ストリートファイターとはつくづく厄介な生き物だと」
グレッグは苦笑し、拳を打ち鳴らした。
「ああ、悪いな。お忙しいところよ」
ブルドッグ・ジョーは眼鏡を外すと二、三歩後退し、構えた。
「知らんぞ。この戦いの後、自慢の肩書きを名乗れなくなったとしても」
やはり、あの野性的なスタイルを、この少なからず知的な印象を与える大男も取っている。
トゥーマッチタウン・ファイター、か。
ゲイリー、アート、グレン、例外なく、誰もが生の戦場を生き抜いてきたのだ。
スポーツ格闘技と一線を画した、型にとらわれないスタイル。
グレッグ・バクスターもまた、構えた。
彼もまた、やはり、ストリートファイター特有の気性を感じさせていた。
彼は幾度と無く勝利を掴んできた両拳を、ぐっと握った。
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