『アンノウン・キング』

43


 ボクサーに、空間を与えてはならない。
 打撃格闘術において、最も重要なファクターは、間合い、つまり空間である。例えば空手でいう前蹴りは遠すぎると空振りし、近すぎると膝のバネが活かせずに不発に終わる。無益な間合いと最適な間合いが存在する以上、“体を当てる”ことが前提としてある打撃格闘術を間合いを抜きに考えることはできない。とりわけキックや組み技を廃し、拳撃による攻撃のみに打撃術を絞ったボクシングの場合、その空間は特に重要である。攻撃対象を腹部から頭部に限定しているため、他格闘技と比べて、狭い。狭く、また脚部への攻撃も未発達、空間の移動範囲も限られているが、しかし攻撃を狭い範囲に限定している分、一度相手をその空間に呑み込んだ時のラッシュ力は凄まじい。ムエタイ、空手、テコンドー、キックボクシング、世界に数多の打撃格闘術が存在するとはいえ、突きの連撃(ラッシュ)の技術においてはボクシングより長けている武術は存在しない。一度相手を捉えたならば、夥しい練習量によって鍛えられた重い拳の弾幕が相手からダウンを奪うまで放たれることとなるだろう。
 逆に言うならば、空間を与えさえしなければ、ボクサーに負けることなどないのだ。
 遠くジャパンで行われたミックスド・マッチが良い例ではないか。当時最強と謳われたボクサー、モハメド・アリは、マットに寝そべり、ボクサーの持てる空間の外にいた日本のレスラーから最後まで勝利を奪うことはできなかった。
 そう、ボクサーを相手とする場合、空間さえ与えなければ、何一つ問題ない。常に相手の射程外に立って、リーチのある攻撃(例えば足技)で畳みかけてしまえばいいのだ。
 ハリー・ノーランはそのことをよく分かっている。
 分かっているが、しかし。

 ―――なんて野郎だ。

 ハリーとロイ・ベーカリーの距離は4、5mほどある。
 先ほどの攻防から間をおき、その後さらに後ろへ下がっている。
 ボクサー相手に、十分すぎるほどの間合いのはずだ。
 だが、目の前の男が放つ殺気は完全にハリーを爪先から背まで包んでいる。
 槍か鞭のように長いあの両腕が、通常のボクサーの持てる“射程距離”を2倍から3倍に引き伸ばしているのだ。
 あと数歩、相手が前へ進むだけで攻撃の間合いに入ってしまう。
 一気に距離を詰めるなら、次の瞬間にも攻撃が届くに違いない。
 これはボクサーを相手にして考えられない距離であった。
 恐らくキックスタイルの格技者の持てる間合いと大差ないだろう。
 ハリーがテコンドーベースのキックスタイルである以上は、空間の外から、離れて戦うことは“不可能”であった。
 目の前の男はボクサーでありながら、その能力はボクサーに求められる以上のものを有している。
 生まれながらに。
 ロイ・ベーカリーが王者として君臨した理由は、やはりあの両腕に因るところが大きいのだろう。
 あの狭いリングの中で向かい合った対戦者は、彼を目の前にして絶望したに違いない。
 どこに立っても、あの拳が自分の体にぶつかってくることが容易に想像できるのだから。
 ボクサーでありながら、キックの間合い。
 ―――やりづらいな。
 「来ないのかい?」
 ロイが声を発した。
 「来ないのなら、こっちから行くぞ、カウボーイ」
 さあ、始まるぞ。
 空間の外が存在しない以上は、正面から向かって活路を見出す以外にない。
 ハリーは両拳を握り、前へ伸ばした右足に重心を置いた。
 2、3歩、相手が動いたら危険だ。その時点で奴のストレートの間合いに入る。走ってくるようであれば、フックによる攻撃を想定しなければならない。
 大丈夫か?保険には入っていたかな?ハリー?
 呼吸を整え、ハリーはじっと構えた。
 オーケイ。心の準備は整った。来な、チャンプ。
 「言わなかったか?俺はカウボーイじゃない。保安官(シェリフ)だ」
 「俺にとっちゃ、白人て奴はどいつもこいつも汚えナリのカウボーイさ」
 ロイ・ベーカリーが突進した。
 あの巨大な腕で頭をガードしながら、一気にハリーとの距離を縮める。
 大型トラックが猛スピードで突っ込んでくるような迫力があった。ハリーがろくに格闘経験を持たない素人であったなら、交通量の多い道路の真ん中に立って車を避けるように、ごく自然なかたちでその突進を回避していたかもしれない。
 だが、ハリー・ノーランはストリートファイターだった。
 そこに勝機があるかぎり、逃げられない。
 ――入った!
 間合いだ。
 あのただでさえ広い拳の結界の、最も危険度が高い空間。
 拳への恐怖が高密度で漂っている、あの空間。
 炎の中に飛び込んだようだ。
 ――フックに気をつけろ、ハリー。
 豪音。
 長い腕がハリーの頭上を掠めた。
 ハリーは、屈んでいた。
 目の前にロイの屈強な膝がある。
 俊敏な動作で、ハリーは最適の角度から足払いを放った。
 鞭のようにしなやかな足撃が、ロイの脛をうち払った。
 ロイが、打たれた足を一歩退けた。
 相手のパンチがキックの間合いである以上、カウンターによる攻撃はこちらにとっても有効である。
 これはロイ・ベーカリーを相手にして唯一の利点だ。
 ――次は?
 ハリーは横へ転がり、避けた。
 いま、ハリーがいた場所にモンスター・アームズの片腕が打ち下ろされている。
 まだ、終わっていない。
 ロイ・ベーカリーを目の前にしている限り、常に拳の危険が付きまとっている。
 ――届く。当たるぞ。
 瞬時に立ち上がり、両腕を構える。
 ロイは拳を振りかぶっていた。
 長さが怪物的なら威力も怪物的な破壊力を持つあの長腕を。
 ――ストレート。
 ――動け!
 幸い、動いた。
 ロイの攻撃に合わせて、体を横に流すようにして躱す。
 躱しつつ、再びの足撃!
 爪先でロイの顎を蹴り上げる。
 「ッッ〜〜〜」
 衝撃音と共に、ロイの首が前後した。
 追い打ちをかけるように、腹部目がけて蹴り込む。
 足裏が黒褐色の腹にめり込んだ。
 度重なる蹴撃に、ロイは怯んだかに見えた。
 しかし、彼もあくまでボクシングヘヴィ級王者であり、これまでに0.1tの肉体から放たれる拳打をその身一つで耐えてきたのであった。
 ハリーの足撃を意に介さず、大きく踏み出す。
 力強い踏み込みであった。
 ハリーの方は、先の攻撃でまだ片足が地についていない。
 不安定なバランスの中で、ロイの反撃を、その両目でしっかりと捉えていた。
 好敵手グレッグ・バクスターの攻撃を炸裂する爆弾に例えるなら、目の前のロイ・ベーカリーの攻撃はミサイルに例えることができた。あの両腕は、槍や鞭などではない。2基の“兵器”なのだ。音を立てて中距離ミサイルAMRAAMさながらにあの拳が突っ込んでくる。長い射程距離。その威力は高性能の戦闘機すら撃墜し―――
 発射台が標準を合わせた目標は、いまハリーの顔面にある。
 鼻をへし折られるだけでは済まされないかもしれない。歯も砕かれるだろう。もしかすると、頭蓋を―――
 踏み込み、腰の回転、握力、身体から発せられる全ての破壊の要素が乗った拳打。
 ロイ・“モンスター・アームズ”・ベーカリーがそこにいる。
 「ぬう!」
 唸り声とともに放たれた拳によるダメージを、ハリーは片方の腕で頭をガードしながら、体を横に倒すことで最小限に押さえた。
 しかし、その震動。
 まともなインパクトは避けたにも関わらず、受け止めた腕から全身へ決して微弱とはいえない強烈な震動が伝わってくる。衝撃の瞬間には、一瞬目眩すら感じた。
 これがモンスター・アームズ。
 ハリーはそのまま後方へ飛んだ。
 ロープが無いのが幸いであった。
 もし限られた狭いリングの上だったら、そのまま畳み込まれていたかもしれない。
 ここは自分の領域。ストリートだ。自分にこそ分がある。
 再び、ハリーは十分すぎる間合いをもって構えた。
 もちろん、油断は出来ない。
 奴の拳は、すぐに届く。

 


第44話に進む
第42話に進む
図書館に戻る