『アンノウン・キング』

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 グレッグ・バクスターの目前に立つ男は、とてつもなく巨大だった。背丈だけではなく、横にも大きい。以前TVで見たことがあるジャパンの伝統武術“相撲”の使い手が丁度このくらいであったと思う。肉体そのものが膨圧しているようだ。“圧倒的な”雰囲気を、その男は持っている。大木のように太い腕。盛り上がった肩の筋肉に、二つの丸い膝が彼のその巨体をしっかりと支えている。彼が呼吸すると、肉が揺れた。アメリカ人に最も典型的な体型の一つ、肥満でありながら――しかし、この威圧感。格闘家だけが持てる独特の熱気を帯びた存在感。静かであるが、野性的な、闘気。犬顔の巨漢、ブルドッグ・ジョーは、強い。路上で培われた、がさつで荒っぽい存在感を、その静けさの中に持っている。

 「いくぜ」
 まずはグレッグが先制した。
 左のジャブを2発。
 矢のように放たれた拳はジョーの顔を捉えたかに見えた。
 人智を超えた速度である。
 元来が次の攻撃への布石として用いる技。
 ぶつけて当然の攻撃であった。
 だが、彼の必当を前提とした攻撃は2つとも不発に終わった。
 大木のように太い腕がジョーの顔とグレッグのジャブの間を遮っていた。
 予測していなければ、まず防御は不可能である攻撃を、ジョーはすでに予測していた。
 あの時、グレッグが「戦わざるを得なければどうだい?」と呟いた時から、ジョーはあらゆる攻撃を想定したに違いない。
 目つきが、あの時変わったことをグレッグは見ている。
 闘犬が唸り声をあげて体勢を低くするように、ジョーはもう戦闘態勢に入っていた。

 二人は、再び止まった。
 どちらも攻撃の射程距離にありながら、硬直が続く。
 「手加減はできんぞ」
 ふと、ジョーが攻撃を宣言するようなことを言った。
 グレッグは、笑っている。
 もとよりそのつもりだった。
 彼は決してマゾヒストではなかったが、いまは撃たれることを心待ちにしていた。
 単純な好奇心が、彼を駆っている。
 トゥーマッチタウン・ゴーストを捜しにこの町に来た彼は(もちろんそのこともしっかりと念頭に入れているが)いまは一人の、純粋な喧嘩を嗜好するニューヨーク・ストリートファイターとして立っていた。
 ――見たい。この男、どれだけのものを持っているのか。
 「上等だ。というより、そうでなきゃ困るな」
 グレッグは言い、そして見た。
 ジョーの腕が、吼えている。
 
 グレッグ・バクスターの目の前が一瞬チカチカした。
 ロック・コンサートに居合わせているかのように、強く眩いフラッシュが彼の視覚を強く刺激した。
 だが実際に刺激されているのは、脳のほうであった。脳が、ジョーの攻撃に対して明らかな防衛反応を行っていた。グレッグの脳が涙声で叫んでいる。
 ――ダメだ。これ以上の攻撃に耐え切れそうにない。やはりこの状態での連戦は無理があったのじゃねえのか。サー?
 両肩が、地面に着いた。
 ダウンしていた。
 たった一度の攻撃が、グレッグの体をまるごと吹き飛ばしていた。
 「立ちな」
 ああ。俺はあの台詞を聞いたことがあるぞ。
 そうだ、ほんの1時間前に、俺がアート・コーポランドに言った台詞。
 「まだ立てるだろう?」
 当たり前さ。
 グレッグは両膝を起こし、立ち上がった。
 拳を握って、対戦を続行できることをアピールする。
 目の前の男は依然としてふてくされた顔でこちらを見ていた。
 グレッグは撃たれた頭の側面をさすった。熱い。まだ痛みが残っている。
 「驚いた、あんた合格だ。畜生、最高にいい気分だぜ」
 ジョーはやはり表情を変えない。目つきは相変わらず“やる気”だが。
 「そのうち飽きる」
 「どういう意味だい?」
 「撃たれっ放しになるだろうからな」
 「俺がか?」
 「言うまでもないだろう」
 「ヘッ」
 グレッグ・バクスターが、跳んだ。
 自分でも信じられないほど、先のダウンの後遺症はない。
 ただいつも通りに、ニューヨークの路地裏でそうするように跳躍した。  
 彼自身が一つの爆弾だった。褐色の手榴弾が投擲されていた。
 左拳でジョーのガードを誘っておいて、回転させた右の拳が、ジョーの脇腹に炸裂した。
 踏み込みを効かせた渾身のボディブロー。
 大抵のファイターはこの攻撃で蹌踉めき、許しを乞う。
 内蔵を撃たれることは、肉を打たれることより辛い。
 しかし、ジョーは退かない。
 何より、効いているのか、分からない。
 グレッグの拳は確かにジョーの脇腹にめり込んでいたが、どうもダメージを与えている様子は無かった。
 内蔵を貫いた、というよりはむしろ、自分の拳が相手の肉に埋まっているといったほうが正しかった。
 ――この肉の量だ。
 グレッグが拳を引き抜き、続いて左でジョーの顔を狙った。
 これは弾かれた。
 ボリュームのある雑誌のような手のひらが、グレッグの攻撃を虫でも叩くように打ち払っていた。
 「ふん」
 一瞬、ジョーが鼻から息を漏らすのを、グレッグは聞いた。
 余裕から出たものなのか、賞賛によるものなのか、あるいは意味を持たないものなのか、とにかくジョーは鼻息とともに再びあの太い腕を振り回した。
 体重を乗せたラリアットが、腕全体がグレッグの体を打ち払う。
 一言で体重とは言え、ブルドッグ・ジョーの体重である。
 半端ではない圧力が、グレッグを揺さぶり、再びその両足を地面から突き放した。
 危うく二度目のダウンというところでグレッグは受け身をとって構えた。
 「ぬっ」
 思わずグレッグは目を見開いた。
 先ほどまで一歩も動かず、冷静にこちらの攻撃に対処していたブルドッグ・ジョーが、あの巨体を揺らしながら走ってきている。
 走るといっても距離はほんの数歩だったから、跳んできているといってもいい。
 とにかく離れたと思っていたジョーが再び目の前に立っていた。
 そして、彼の拳は堅く握られている。大きい拳。槌のような拳。
 ハンマーがグレッグの頭を打ち砕いた。
 軽い脳震盪を起こし、グレッグの両足が数瞬の間、彼の意志に逆らってふらついた。
 脳がまた助けを求めている。理性よりも本能だ。
 どちらが大事か、グレッグは知っている。
 だがしかし――言うことを聞いてくれ。
 幸い、ダウンはしないで済んだ。
 しかし、前のめりになったグレッグに反撃の余裕は無かった。
 ジョーのボディブローがグレッグ・バクスターという難攻不落の要塞に痛恨の一打を浴びせていた。
 城壁が崩れるのを感じた。鉄球がアンダースローで飛んできていた。
 なにぶんあの体重を乗せている。攻撃を受けるたびに、グレッグは一歩、また一歩と後退していた。
 彼自身の攻撃はジョーを後退させるにも至らなかったにも関わらず、彼はロープのないリングの上をゆっくりと後退している。
 一際大きな攻撃がグレッグの体を浮き上がらせた。
 それはグレッグ・バクスターが予期していない攻撃だった。
 ブルドッグ・ジョーは体(ボディ)そのものを“技”として使っていた。
 ただの体当たり。
 飛び込み、なんの技術も無しに自分の持てる体重をぶつけるというその攻撃は、あるいはパンチやキックよりも、人間が素手で行える攻撃の中で最もシンプルな攻撃かもしれない。やっと立てるようになった幼児でも使えるであろうその単純な攻撃も、ジョーが使うと自慢の肉量を乗せることで一撃必殺の可能性すら有した強力な必殺技と化していた。
 砲弾どころではない。
 トゥーマッチタウンに突如出現した一ヶの巨大な惑星が炎の尾を引いて追突してくる。
 グレッグは滞空し、再び地面に叩きつけられた。
 重力までもが彼の敵になっている。
 体全身が痺れる。
 無理もない、あの体重を全身で受け止めたのだ。ちょっとした交通事故に出くわしたのと、なんら変わりはないのではないか。
 違うのは、その車は轢き逃げどころかもう一度自分を轢きに来るということくらいだ。
 そう何度も耐えられる攻撃ではない。
 ただ体をぶつけることがこんなにも破壊力を持っているとは。
 「…やるじゃねえか」
 しかしグレッグは不敵に笑い、立ち上がった。
 効いている。
 先ほどよりも立ち直りが遅い。そのことに自分自身が気づき、彼は苦笑した。
 だがよ、敗北には早いぜ。
 二度のダウンは奪われたものの、“負け知らず”の名はまだ奪われていない。
 元々こっちが売った喧嘩だ。大丈夫、やられっぱなしじゃ終わらねえよ。
 正面では、ジョーが拳を振りかぶっている。
 打ち下ろされた。
 轟音。
 グレッグはまたしても後退した。

 


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