『アンノウン・キング』

46


 「たまげたな」
 グレッグ・バクスターは流れる鼻血を拭いながら、再び立ち上がった。
 何度目かのダウン。久々の苦戦だ。最後のハリー戦以来か?
 いま、ニューヨークで語りぐさとなっている“負け知らず”の名が危うい。
 やはり仕掛けるべきではなかったのではないか?
 そもそも、相手自身が言っていたように戦う必要があったのだろうか?
 様々なことがグレッグの脳を過ぎり、やがて消えていった。
 過ちだとか、必要などといった発想は、いまこの場に相応しくない。
 勝ち残ること、それだけが大切だ。
 敢えて言うならば、いまこうして俺が戦っているのは必然だということ。
 戦っているかぎり、俺はグレッグ・バクスターであること。
 そう考えれば、過去のことを考えることがどれだけ無意味か分かりそうなもんじゃないか?

 目の前の闘犬、ブルドッグ・ジョーはゆっくりとこちらに歩を進めていた。
 巨体が揺れる。悠々と歩くその様はまるで巨象の行進のようだ。
 ただぶつかるだけで殺人的な破壊力を有する、その肉体が着々とこちらに進んでくる。
 「強いぜ。久しく感じたことの無い緊張感が俺を切り裂いてる。ニューヨークじゃ、そう体験できるもんじゃねえ」
 犬は、歩くことを止めない。あと数歩で射程距離に入る。
 あの迫力が、グレッグをもうすぐ包む。
 彼は、一人肯いた。
 「うむ。俺もやはり、好きだな。こいつが」
 ブルドッグ・ジョーの強肩が吼えていた。
 犬が敵の喉元に噛みつくように、下から突き上げるようにして拳を放つ。
 それはごく普通のショートアッパーだったが、その拳撃の迫力に“ショート”などという形容詞はひどく不相応だった。
 グレッグは両手を組み合わせて壁を作り、ジョーのアッパーを防ぐ。
 しかし例によってジョーの攻撃はガードしたとしても、体重による強烈な震動がグレッグの全身を襲っていた。
 「オオッ!」
 グレッグは咆吼することでジョーの攻撃に耐え、何とか両足を踏みとどまることに成功した。
 後退はせず、ガードを放して、反撃に乗り出す。
 右のフックから左右の連撃が、ブルドッグ・ジョーの胸に炸裂した。
 拳面が肉にぶつかるたびに、激しい衝撃音が路上に鳴り響いた。
 勢いが増したところで一際大きく踏み込んでボディストレートを撃ち込む。
 またしても拳が肉に“埋まった”が、今度は流石に効いたのか、ジョーの表情が苦悶に歪んだ。
 だが、グレッグはさらなる追撃を望むことはできなかった。
 ジョーは、ダメージを受けながらも歩み寄ってきた。
 あたかもグレッグが先のアート戦でそうしたように。
 「タフネス」
 グレッグは呟き、見上げた。
 握り拳が叩き下ろされている。グレッグは慌てて両腕を交差して受け止めた。
 金槌によって撃ち込まれた鉄釘のように、グレッグの体勢が一気に落ち込む。
 ――なんて威力だ。
 両膝を曲げながらも、しかしグレッグはダウンだけは免れた。
 ジョーのハンマーを歯を食いしばって耐えながら、右のローキックを放つ。
 両腕を封じられていたため、その体重の乗らないローキックは牽制程度にしかならなかったが、いまのグレッグにとってはそれで十分だった。
 威力の無いローキックに僅かながら反応したため、ジョーのハンマーの威力が緩んだ。
 グレッグはこの機にすぐさま飛び退いて再び距離を置いた。置こうとした。
 だが、ブルドッグ・ジョーは先にグレッグの次の行動を読んでいたかのように、グレッグとほぼ同時に行動を行っていた。
 ――体当たり?
 ブルドッグ・ジョーの姿勢は低くなり(それがまた一層ブルドッグを思わせた)、こちらに向かって飛び込んできている。
 視線はグレッグの足にあった。
 両膝のバネは伸びきり、弾丸のように真っ直ぐと、グレッグの足下目がけて――
 ――違う。これは……!
 ガッチリとジョーの太い両腕がグレッグの片足を締め上げていた。
 見た目に恥じぬ強烈なクラッチ。
 剣のような犬歯がグレッグの両足に突き刺さっているのだ。
 最早、逃れられない。
 後はじっくり、動けなくなった相手にとどめを刺すだけ。
 犬が、獲物の足に噛みついた瞬間だった。
 ――タックル!
 片足を奪われたグレッグはバランスを崩し、そのまま背中を地面に打ちつけた。
 彼は空を見上げていた。
 片足を伝っていたブルドッグ・ジョーの大きな手の感覚が消えた。
 しまった、と思った。
 彼の見上げていた空が、ブルドッグ顔の大きな巨体に覆われてしまった。
 グレッグの上に、ブルドッグ・ジョーが馬乗りになっている。
 世に言うマウント・ポジションをとられてしまった。
 ただでさえ不利だった展開が、相手に主導権を握られ、さらに不利になってしまった。
 「終わりだな、“負け知らず”。無敗の王者は、この町にいらない」
 珍しく、ジョー自ら口を開いた。
 見下ろし、グレッグの表情を見やる。
 今にあの太い腕で顔を机のように叩き、ダメージを与えるのだ。
 ただのダメージではない。“負け知らず”の名を剥奪するダメージ。

 


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